戦間期フランスの知識人交流

調子出てきたから桜井哲夫『「戦間期」の思想家たち』の書評や。関西人やない人は、島田紳助あたりの声を乗せてもろたら、読みやすいんちゃうかな。「紳」助ゆうて、ぜんぜん紳士やあらへんけどもな、あいつ。見損なったもん、正直。吉本の会社の人間が、社外の人間に向こうて、吉本の上司のこと呼び捨てにすんのん、あたりまえやがな。文法的なこと言うたら、「相対敬語」っちゅうやっちゃな。「はい、社長がほにゃらら申しておりました」っちゅうやつ。古いこと蒸し返すようやけども、忘れへんからな、そういうたぐいのゴシップは。
「戦間期」の思想家たち レヴィ=ストロース・ブルトン・バタイユ
でまあ、こんな無駄口叩いてられんのも、この本に関してはあんまりコメントすることないからやねん。アンドレ・マルロー、レヴィ・ストロースアンドレ・ブルトンジョルジュ・バタイユを軸に、かれらの交友関係のなかで、戦間期の思想的特徴がどないな感じやったかっちゅう、それ自体は、めちゃくちゃおもろそうな話題やねんけど、話題のおもしろさに、語り口のおもしろさがついていけてへんねんから、話にならへんわ。もちろん全否定するような駄本とはちゃうし、それなりに人物交流とかの情報はあんねんけども、もうちょっと書けるんちゃうの、ってな感じは否めへんわな。ところでレヴィ・ストロースってまだ生きてんねんやったっけ?まあ、ええけど。とにかく、戦間期の知的な若者がブレイクスルーを夢見ながら味わった高揚感のなかで、フランス現代思想やフランス文学における、あの独特の知的雰囲気が開花する土壌ができてくるんや。太陽肛門だの自動筆記だのいう、あのちょっと怪しげなイメージ。で、読みすすめていくと、やっぱりガゼン気になるんは、フランス共産党の存在やな。フランス知識人はみんな超エリート学校(エコール・ノルマルや、理系はエコール・ポリテクニックやったかな?)を出てて、めちゃくちゃ知的基盤の共通性があるけども、さすがにマルクスとはちょっと縁遠いやろって感じのする人間が、軒並み政治的に共産党と接点もってるのには、意外な感じがする。なんでバタイユが、マルクス主義やねん、っちゅう。もしかしたら、コジェーブあたりが噛んでるんかもしれへん。ロシア発ドイツ経由でパリに避難してきたコジェーブ(「動物の時代」の人)は、そこらへんにいる知識人にヘーゲル哲学の講義(『精神現象学』)をして大いに受け入れられたんやけども、そういうのを経由したマルクス読解があったんかなあ?*1ま、これは妄想にすぎひんけど。とにかくいずれにしても、ほんまにおかしな思想世界が花開いたもんやで。なかでもやっぱり気になるんは、バタイユからロジェ・カイヨワにつながる社会学研究会の思想やな。そういう意味じゃ、モースの存在は大きいで。なんといっても、Durkheimの弟子(甥)やからな。でバタイユにハナシを戻せば、かれは、革命っちゅうもんが、近代において忘れられてしまった聖なる力の復活のきっかけになると夢想したわけや。しかし、いくらなんでもそんなマルクス主義ってありなんか?むちゃくちゃすぎるやろうが。どうにもこうにも。まあ、むちゃくちゃついでに言っとくと、ブルトンが『シュルレアリスム第二宣言』で、バタイユと大喧嘩したっちゅうのも、ゴシップっぽくておもろかったぞ。ほんまに小さいグループの間で、離合集散を繰り返してて、そういうなかで自分の独自性を見出していく感じは、何となく伝わったわ。ちなみに余談やけども、バタイユ、写真でみたら、ものすごい男前やな。けっこうもてたらしいけど、売春宿に通い詰めて、勤務先の古文書センターには遅刻ばっかりしてたらしいわ。あと、アリエスが王政派一家に育って、自分もアクション・フランセ−ズ学生組織に参加してたっちゅうネタには、びっくりやったな。アクション・フランセ−ズって、ばりばりの右翼やんけ。それがなんで『〈子供〉の誕生』やねん。これはまた、邪推してみる価値あるハナシやと思った。で、とにかく言いたいことは、フランス知識人の交流っちゅうのは、えらい狭い世界の話やということや。頭でっかちの若者が寄り集まって、現実コンプレックスの裏返しの行動派哲学を展開したってなところが、真相とちゃうやろか。これはその後の世代、アルチュセールとかフーコーとかラカンとかにもいえることやと思う。戦後デビューの知識人なんて、みんなアルチュセールに哲学の手ほどきしてもらってたんやろうが。カンギレームなんていう科学史の先生もおったしな。まあ、戦間期にかぎらず、思想世界も政治との関わりでできてるんやということを改めて考えないとあかん。とくにフランスの場合。その点、ロマン主義発祥のドイツのほうは、同時代的には思想・哲学の独自性を保ってたようにも思える。ハイデガーとかそういうの見ても、思想の独自な発展の結果として、政治へのコミットの契機が見出されたっていう感じやもんな。なんちゅうても、ヘルダーリンのポエムの話が、故郷だの国家だの決断だのといった話につながっていくんやから、こっちのほうが気宇壮大で、無理やり現実との接点をさぐろうっちゅう頭でっかちさを感じないぶん、オレは好きや。ああ、関西弁やと出鱈目なこと言うても全然平気やな。ホンマ、めちゃくちゃ筆進むわ。みなさん、ホラ話には気をつけてや〜。

*1:ドイツ哲学が、遅れて近代を受容した思想であったために、かえって近代を乗り越える要素をもちえたのではないかっちゅうことは、「マンハイム」の日記のところでちょっとコメントしたけど、コジェーブ人気の背景にも、そういう事情が関わってたと考えてみるとおもろいな。