佐藤卓巳『言論統制』

あほ。長いわ。分厚いわ。437ページって殺す気か。新書ちゃうかったら、またまたわが家の本棚を圧迫するところやったわ。ほんま新書でよかった。まあ力作なんは認めるし、随所に勉強なるところはあったがな。とはいえ始めに言うとくけど、文章、決して読みやすいとは思われへんぞ。下手ではないが、もうちょっと読者フレンドリーに、ストーリー化してくれてもええんちゃうか、って思った部分がようさんあった。というか、陸軍の内部機構とか全然予備知識あらへんねんから、イチから説明してくれまへんか?そうなったら、1000ページくらいになってまうと思うけど。まあ日記あんだけ抜粋してんねんから、この際かまへんやろ。
言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)
それにしても、ほんまボクがこれから考えなあかんことを、いくつも教えてくれたのは確かで、感謝しますわ。副題は、「情報官・鈴木庫三と教育の国防国家」。すずきくらぞう、略してスズクラ。かれは、戦時中に高度国防国家の建設をとなえ、教育学の素養を背景に「思想戦」を戦った人物。陸軍による言論統制の中心人物であったとされ、戦後は出版人、言論人から、戦前の極悪人のイメージを植え付けられた。でもほんまはそんな権力を笠に着る人間やのうて、ひたすら誠実に国家の行く末を案じていた行動人やったんやな。これが佐藤先生が彼の日記から明るみに引き出した真実や。で、ボクにとってなにが重要やったかゆうたら、このスズクラの高度国防国家の理念が、戦後すぐの教育改革にまっすぐに連続しているという可能性があることです。ふつう戦前と戦後はまったく違う理念にもとづいてたというのが常識やけど、それはちがうんとちゃうやろかってこと。加えて、スズクラの理念が受け入れられた背景には、別に陸軍がいばりちらしたという事実があったんではなく、じつは知識人や大衆の側に、それを受容するだけの素地があったかもしれへんという可能性もある。たぶんそうやとボクは思う(荒俣宏『決戦下のユートピア』参照せよ!)。スズクラ日記のなかで、その感触が語られてるところを抜粋しとこう(1940年の大晦日の日記)。

今年は極めて忙はしい年だつた。然し自分が一月上旬に書いた論文、「国防国家建設の提唱」は歴史的なものだ。その論文の理念によって国家は今動いて居る。二千六百年の光輝ある歴史を飾る論文と言ふてもよい。事情あつて之は公にされなかつたが講演では盛に宣伝した。又独伊の国防国家論と共に日本の進路を説いて歩いたのが俄然輿論となつた。年末近くなつてから余の監修で『世界再建と国防国家の建設』といふ論文を朝日新聞から公にした。これが大好評。続いて余の著述で『教育の国防国家』と云ふ書を公にした。これは目黒書店から出したのだが、教育界に大好評。近く『国防国家と青年』といふ書を公にすべく準備中である。其他雑誌によつて宣伝した国防国家論は枚挙に遑がない。要するに国防国家論の本家本元が鈴木少佐といふことになつた。これは何うしても日本歴史、就中昭和維新史の一枚に基〔付〕らるべき問題だ。今後益々活躍せねばならぬ。(405ページ)

そんで1940年12月には情報局ってのが出来て、鈴木は文官兼武官の立場で、「思想戦の陣頭」に立つっちゅうわけや。しかもそのとき、戦後にそれぞれの出版社が証言してるのとは違って、むしろ出版社の方が大政翼賛に積極的やった側面もあったわけ。スズクラのほうが、「あまりに擦り寄ってくる奴ばかりでだらしがない」ってな印象をもってた位やった。じゃあ戦後なんでスズクラが極悪人あつかいされたかっちゅうと、そういうスケープゴートをつくることによって、自分の体面が保たれる人がぎょうさんおったからですな。アイツが全部わるい、ってことにしといたら、自分の犯した悪を追及される心配が減るからな。ホンマ胸くそ悪いことやけど。
で、それをふまえて重要なことは、戦時中の鈴木庫三が意外にシンパシーも持たれてたその理由は何かちゅうことや。ボクなりにまとめると、それはやっぱり、鈴木庫三が、社会的弱者によりそう視点を持ってたからやと思う。この人、1894年茨城生まれやねんけど、ほんまに貧しい農村生活のなかから苦学して、立志を果そうとした。ほんまそれに関しては、尊敬どころか、あきれるくらいの頑張りようやった。それで陸軍大学をめざして陸軍士官学校に入学するんやけど、ここで輜重兵(運送・補給システム担当)科に割り当てられ、そんでもって年齢制限で陸大入学は無理になる。そこで目標を変更し、内務班でのイジメ問題なんかを目の当たりにしたこともあって、陸軍の教育システムに興味をもつようになるんや。ちょうど当時の陸軍の士官候補生のなかには、帝大派遣っちゅうシステムがあったから、それをめざして、まずは日大に入学、そこで助手に採用されるまでになって、その後念願かなって東大教育学科で学ぶ。でもその間ずっと陸大出身(天保銭組と呼ばれた)のエリートにたいして反感をもち、一方、貧しい階層出身の軍人に親しみを抱きつづけながら、思想形成していくんやな。上流階級の華美な生活に対してはめちゃくちゃ怒るけど、社会主義とかにはけっこう理解を示してるし。せやから、ずばり言うとくわ。ボクが思うに、この人の思想の根本は、「質実剛健」や。それ自体は立派な思想がやったから、彼の国防国家論ももっともなことやと受け入れられたし、また彼の発言には日大の倫理学・東大の教育学がベースにあったから、そのせいでも立派なもんやと理解された。もちろん、オールドリベラリスト和辻哲郎とか)なんかの大正教養主義のインテリとはまるで発想があわへんかったけども、でもそれはスズクラの貧しい社会にたいする改革理念があったればこそなんや。かれが教育の国防国家によって何をめざしたか。それがわかる発言を引いとこう。1940年の発言。

国防国家の教育組織が本当に充実して来たならばどういふ風になるかと申しますと、本当に立派な個性を持つて居る人は、その個性を遺憾なく国家の為に発揮出来るやうな立派な教育を官費で受けられるやうになるのであります。従来はどんなに頭の良い子供でも、家に財産がなければ、大学にまで行くことが出来ないやうな不自由な世の中であつたのでありますが、今度はさういふ立派な個性を持つ子供達が自由に国家の力で教育を受けて、その個性を発揮することが出来るやうになるのであります。(260)

ようするに自由と平等の教育を彼はめざしたわけや。ええやろ?さすが苦労人のいう言葉や、説得力がありまっさ。ところで、なんで軍人が教育のことなんか話してるんか、不思議に思う向きもあるやろうから、説明しとこう。じつはな、軍隊っちゅうのは、戦争のないときにはまるっきり教育組織やねん。ええ、ホンマかいなって?びっくりするのも無理はあらへん。ボクもびっくりした。でも、びっくりするけども、そのとおりやろ?まあ大事なとこやから、引いとくわ。

軍隊教育は戦闘を以て規準とす。故に兵営生活は即ち陣中の生活の縮図なり。従つて其施設は極めて質素にして困苦欠乏の訓練に適す。而して兵営は軍人の学校なり。(略)バンキン新教育論者は学校教育に於て「社会化されたる教育」を高調するも其実質に於て恐らく軍隊教育に優るものなかるべし。何となれば軍隊教育にありては以上の如き社会的組織を有するのみならず、其社会に於て成員たる軍人個々人を訓練すると同時に、社会其者たる一貫の統率系統を有する軍隊をも訓練するものなればなり。以上の如くして軍隊教育は同時に家庭教育・学校教育・社会教育の三者を兼ぬるものにして最も理想に近き教育なり。(1936)

それで、ボクがやっぱり興味ひかれんのは、東大教授やった阿部重孝なんかが進めてた教育科学の運動と、この鈴木庫三の主張とが共通の問題意識に基づいているっちゅうことや。つまり、教育を適当に方向づけとくんやのうて、事実にもとづくやりかたをやり、また国家の目標にしたがったやりかたで組織していかんとあかん、っちゅう主張が力を持つようになっていった時期がめちゃくちゃ気になるんやな。こういう主張って、国家主義につながる危険はあるんやけど、でも教育が共同体の再生産のためにあることを考えると、至極まっとうな意見やということも出来る。ではこの危険とまっとうさの問題が、スズクラ・阿部重孝のなかでどのようなかたちであらわれ、またそれは戦後において、どのようなかたちで引き継がれていったのか、ってことが、どうあってもボクの重要テーマとなってくるわけですよ。教育には経済・市場の論理にもとずく課題と、人間としての成長という課題の両方があると思う。そうやとしたら、意外にもこの国防国家問題は、この両方の問題に真正面からぶつかったという印象があるんやな。もちろん戦後でもそれは問われたんやけど、それはやっぱり国家・経済・市場の論理の面をかぎりなく軽視するもんやったし、これは本来的にアタックされるべき課題であるという事実から逃げてたと思う。そういうことをこれから考えていかなあかんな、とこの本を読んで思いました(、という小学生的終わり方)。ボクにとっては、文献表も重要情報満載。さしあたっては『帝国教育』っちゅう雑誌をチェックする必要がありそうやな。ほんじゃあ、今日はこのへんでバイバイ。長くするつもりなかったんやけど、ナゴなってもうた。この本と同じやな。ひとのこと言われへんかったわ。ごめんあそばせ。