内田樹の教育論

週刊ダイヤモンド2005年4月特大号が教育特集だったので読む。内田樹が「経済合理性一辺倒から離れ 教育観にバランス感覚を」というインタビューを寄せている。内田はこのなかで、現在の学校教育が「サービス業」と「工場」という二つのメタファーによって特徴づけられると述べる。

前者(「サービス業」)は顧客である子どもと親が、学校に適正な対価を支払って、適正な教育サービスを受ける、学校はサービスの提供者であるというもの。/後者(「工場」)は学校の機能は生徒に教育的付加価値を与え製品にする、学校は工場であるというものだ。

内田はこれらをまとめて「経済合理性」と呼んでいる。だが、この現状認識はさすがにちょっとあやしいだろう。これは学校教育というよりも、塾のことではないだろうか。あるいは進学校。しかもたとえ進学校であっても、「人間教育」などの「情操教育」を目標に掲げる学校は多く、すべてが純粋な「経済合理性」に回収されるとは限らない。(ちなみに、東京の郁文館中・高は、最近元経営者が学校長となり、サービスを前面に出した学校経営をおこなっているらしい。)
それをふまえたうえで、私は次のように考えたい。私見では、これまでの学校教育は、「情操教育」的側面が非常にあいまいであったために、何を達成したのかのチェックを甘くさせてきた。したがって、この「経済合理性」をいっそう進めていくことが、やはり重要な課題ではないだろうか。そうしなければ、学校教育の機能不全を塾・予備校が埋め合わせるという現状が続いてしまう。そのことは、学歴取得に関する階層格差の拡大要因となる(すでになっていると思う)。
とはいえ、このような「経済格差」だけでは、教育の意味を語り尽くせないという内田の意見についても、私は同意するのにやぶさかではない。内田の言うとおり、サービス業や工場の場合、教育内容に内在する価値が目に見えるものとして顧客(親・生徒)に提示されており、その意味でそこには、「等価交換」が成立するとの想定が存在している。しかし、教育とは本来、そのような「等価交換」がおこなわれる営為ではないだろう。「何を習ったかは、習ったあとで事後的に知っていくものだし、習ったことをどう生かすかは完全に各人の主体的な関与によるものである」。学習者にとって、与えられる価値が未知のものである以上、その価値の意味づけを評価しうる主体となるのは、事後的でしかありえない。この意味で教育は非対称な関係性を前提とするのである。さらに内田は次のような指摘をしている。

生まれたときからすでに高度消費社会に組み込まれている子どもは、等価交換という価値観を自明のものとしている。すぐに答えや結果が出ないものを拒否する。そして自分の想像を超えたものを学ぶ姿勢を持たない。これは子どもだけではなく、われわれ全員の責任だ。

これは大事な指摘である。内田によると、戦後日本の教育は、経済的合理性を第一に考え、「自分の想像を超える価値」、あるいは、「事後的に価値をもつようになるかもしれない可能性」といった教育の側面に目を向けることをしなかった。そしてそれが、現在の教育いきづまりの遠因となっている。経済合理性も重要だが、それにとどまらない教育の(ある意味で迂遠な)取り組みも、評価に加えていくべきである――現状認識こそ同意しないが、一般論として内田の主張を見た場合、しりぞけるべき理由はまったくない。
現在、教育の自由化・多様化の路線が進みつつあることは確かである。このような趨勢のなかで見失われるものがあるとするならば、それはやはり、教育の「迂遠な取り組み」の意義なのではないか。このとき、ともすれば経済合理性の方に流れがちな傾向に対し、何らかの歯止めをかけていく論理をどのように組み立てられるのだろうか。これがまずは問題だろう。しかし、敵は経済合理性だけではない。もちろん一方では、それが過去の「情操教育」的なものへと近づく危険をもつことも問題なのである。これがもたらした弊害については、過去の事実をしっかりと参照しなくてはならない。そのうえで、この両者の間で何らかの道筋をつけていくことが、現在のきわめて重要な課題としてあると思う。