「桜」本

ソメイヨシノは10日もすれば散ってしまうので、旬のうちに、と読書。『桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅―』という題名から、読むまで、私は少し誤解をしていたようである。てっきり、桜のイメージが歴史的に創造されていくなかで「日本」というナショナリティも想像されるにいたった、といったような話で終わるものとばかり思い込んでいたからである。もちろんそれでも間違いとはいえないだろうが、著者の真意に達するためには、さらに一歩踏み込まなければならない。ある意味で、本章で検証されている事実は、「桜が「日本」を創った」というそのままの事実を意味するものだからである。
そのことと直接関係しているのは、第三章であつかわれている、システム論の話である。その要点は、人間が自然を意味づけるのと同時に、自然も人間の意味的活動を規定しているのであり、この両者は等価なのだということである。たとえば、現代日本には、ソメイヨシノの花雲を伝統的な美しさと見なす視線が存在している。さらに、ソメイヨシノを俗悪と見なし、ヤマザクラを真正の起源と見なす視線もまた存在している。しかし、そのような視線を成立させている平面には、「『桜』と『日本』は自然という観念を通じて、お互いにお互いの根拠をあたえあってきた」(203)というポジティブ・フィードバックの構図が横たわっている。そして、このような構図を可能とさせてきたのは、①ソメイヨシノ発明以前にすでに想像レベルで抱かれていた桜の美しさ、②植え付きの良さと成長の早さという行政管理上の利便性、③春の同時間性を演出するナショナリティ装置etc…などといった過去の事実であった。つまりここでは、桜をめぐる環境世界に改変をくわえていく人間側の意図と、ソメイヨシノをめぐる環境が人間に及ぼす影響との、無限連鎖的なループが存在しており、このことが、さきほどの視線の平面を形成しているというわけなのだ。その意味で、ソメイヨシノの美しさを日本の伝統と重ねあわせる見方は、それが過去の想像力によって先取りされたものであることを忘却しているといえる。さらに、ソメイヨシノの自然性を否定し、ヤマザクラを真正の起源とする見方の場合、ソメイヨシノがもたらしたイメージを前提に、その本来的な起源がさかのぼられているという問題を指摘しなければならない。
歴史的に追うならば、次のような論旨となると思う。著者によれば、明治には「複数の桜らしさ」が存在したが、明治20年代ころからソメイヨシノが普及するにつれて「一面の花色」が求められるようになり、それは日本という空間の単一性・均質性を印象づける方向に働いたという。さらに大正を経て昭和にはいると、桜をめぐる語りは神話化されてゆき、和辻などのように花の散り際を日本人の特性と結びつけるような論調や、ヤマザクラを起源とし、ナショナリティの時間的起源を発見するタイプの言説が誕生することになったという。その意味で、国民国家の立ち上がりのプロセスのなかに桜語りの歴史は位置づけることができるといえる。精神主義的な語りと擬似科学主義的な語りの両方に、そこでナショナリティの物語を志向する傾向を認めることができる。
とするならば、一方で、全国にいっそうソメイヨシノが普及した戦後は、ナショナリティに基づく物語の拡散が著しい時代であったのではないかと著者は述べる。つまり、国民国家の形成といったような大きな物語の問題性はあるにせよ、では国民国家の問題点をも含み込んだかたちでの物語性はなくてよいのか(たとえば戦死者、戦争責任の問題を考えよ!)、という問題が残るわけである。ソメイヨシノは美しく、短く咲く(50年?)。それは個人のなかで検証されることのない仮想的共同体への賛歌を生み続ける。著者の言葉でいえば、「記憶と感情の個人化」の転化としての、「桜語りの多様化と自閉化」(166)が起こるのである。おそらく著者は、戦後の公共性の基盤について問題にしているのではないか。とりわけ最近のナショナリズムは、個人化・断片化しているはずの個人の感情が、無定形に国家大のナショナリズム感情に結びついてしまう点に特徴があるが、それは戦後のある種のごまかしの結果なのではないか。
なお、気に入った部分を引用しておく。最初のは、少し江藤淳っぽい。

戦後の社会は大きな物語を必要としなくなったのではない。むしろ、あたかも必要ないかのようにごまかした。例えば、それこそ二〇歳男性人口の四倍近い膨大な死者をどこにも位置づけられないまま、宙吊りにしつづけた。「悲惨な戦争」という形でその意味をひたすら個人化しながら、野球や学生運動で戦争の模擬を演じつづけた。それは列島改造による第二の「故郷」づくりにも通じる。桜に結びつく物語だけでなく、大きな物語そのものが拡散していったのである。そのあてどなさを、私たちは桜に引き受けさせてきたのかもしれない。(165)

あるいは、ソメイヨシノの美しさが「死」に結びついてきた一つの理由はここにあるのかもしれない。「死」は人間にとって絶対的な受動性の体験である。死ねば何もできなくなる、その死をただ人間は受け入れるしかない。その受動性は美しさによる感動に通じる。深い美しさによって、人間はいやおうなく動かされてしまう。主体性を奪われるという意味で、どこか殺されてしまうのである。(192−193)

終わらなくなるのでやめるが、この本は、言説分析の応用例として、やはりひとつのモデルケースとすることができるだろう。言説をあつかうということが何を意味するのか。言説には現実が反映されている(=知識社会学)というのでは、あらかじめ現実に関する物語性を導入してしまっているし、では、言説によって現実が生まれた(=構築主義)というのであれば、現実が生まれる場合の起源を設定してしまっている。この限界にこそ、システム論の知見を導入せねばならないのであって、ほんとうに語るべきは、言説によって現実が生まれ、現実によって言説が紡がれる、という無限連鎖的ループなのである。もちろん、ここで「現実」というのはあいまいで、これは桜の場合だと「自然」となるし、ほかの概念化だってありうるわけだが、そのことはつまり、「システム」と「環境」の「区切り方」には、複数(というか無限の)可能性があるということを意味しているのだろう。歴史的対象、歴史的言説のなかから、そのような「区切り」のいくつかをどれほど妥当なものとして提示しうるか、それに基いて、どこまで単一の物語性に回収されない社会的意味世界の再現をなしうるか、これが言説分析でトライすべき課題だと思われる。佐藤の「桜」本は、その意味で、複数の物語性をあつかうことの分かりにくさ、というべきものに良く耐えているような印象を受けました。学ぶべきことは多いし、私にとってまだ整理できない部分も多い。