沢柳政太郎

今日のNHKスペシャルは、明治時代の学校教育について。長野県開智小学校出身の文部官僚・沢柳政太郎(まさたろう)の一生を追う。学制が公布されたのは明治5年、小学校が爆発的に建設されたのは明治8年。立身出世を謳った学制に象徴的なように、小学校は近代の重要な装置だった。一斉教育が導入され、席は成績順、鐘を鳴らして近代的な時間感覚に慣れさせる。試験の内容は、算術や漢字の書き取り、口述試験など。なんと保護者や行政官らの公開でおこなわれたらしい。問「肺臓は何のために存在するものなりや」答「血液を循環させ、……(以下、丸暗記文)」。子供のレベルに合わせた問題とは到底いえないもので、かなり難しかったらしい。学習院大学の斎藤教授によると、このように直接、国家に有為なる人物を選抜する試験制度は、生徒にとっても身分平等を明確に意識させるものだったという。沢柳もこのような雰囲気のなかで育ったわけだ。
沢柳は、明治20年代前後に文部官僚になるのだが、ちょうどこのころ、コネではなく実力本位の採用が始まったらしい。官僚の初任給は50円で、これは職人の約10倍。この頃、エリート養成システムが出来上がったのだと思われる。ちなみに、明治29年帝国大学卒は1800人位(だったはず)。
ただし二葉亭四迷も『平凡』で述べていたらしいが、この試験による選抜システムは丸暗記を基本とするもので、「鵜のような知識の丸呑み」を必要とした。落第なんてしようものなら、公教育は有償だったこともあって大変。子どもにはすごいプレッシャーがあったという。いわば過度の受験競争が起きたわけだ。沢柳が問題意識をもったのも、この問題であった。
明治26年に沢柳は井上毅に意見書を送り、「小学教育」の普及だけでなく、質も問題にすべきだと、具体的な改良政策の必要を訴えた。沢柳の肉声がレコードに残っていてびっくり。沢柳は明治33年には、第三次小学校改革を法律化し、小学校の無償化を実現する。小学校の就学率はすぐに80%以上になった。さらに過度の暗記教育は小学生にふさわしくないとして、個性の教育を打ち出す。同時に、科目を統廃合することによって授業時間を減らし、たとえば「国語」のような新しい科目を作った。学習内容の制限も進めて、たとえば漢字だと1200字以内としたという。また知育と体育のバランスを調整するために、このころから運動場の設置が義務づけられた。
だが、この改革を疑問視する議論も少なくなかった。およそ明治30年代(半ば?)には、中学校の進学競争の激化がおこっている。これは、立身出世意識の社会的拡大を背景に生じた現象だった。こうしたなか、沢柳が打ち出した教育内容は、学力不足をもたらすものではないかとの懸念が広まる。明治39年には、陸軍内部で文部省による学力調査が行なわれたらしく、「過度の暗記・記憶の有害視」が学力不足をもたらしたとの認識が示された。このような揺り戻しの結果として、ふたたび試験制度の必要が訴えられるようになる。
明治41年に沢柳は病気を理由に文部省を辞職する。しかし沢柳は文部省を辞めたあとも、全国の小学校教員にアンケートを行なうなどして、教育の方向性を模索しつづけた。教員らは「画一性の弊害」「知識偏重」などを訴えたらしい。それをふまえ大正16年に、沢柳は成城小学校を設立、個性重視を全面に掲げた自由教育をおこなった。それで、昭和2年に没する。
本当に、寺脇研にそっくりな人だと思う。