夢見る若者の不良債権化
山田昌弘『希望格差社会』を読了。とってもわかりやすい文章だが、たまーにおかしいのは、編集者が無能なせいか?しかし、副題の「『負け組』の絶望感が日本を引き裂く」は秀逸で、内容を的確にあらわしている。あまりに絶望的な内容なので、心臓の悪い人は読まない方が良い。ほとんどが現状分析をしているだけなのに、これだけ悲惨な内容になるのだから、よっぽどマズイというしかない。
ロバート・ライシュのいう「オールドエコノミー」から「ニューエコノミー」への変化は、社会構造のレベルで着実に進んでいる。山田によると、そのことのマイナス面が噴出した年が1998年だった。自殺率も企業倒産も失業率もクラミジア感染率も、すべて極端に悪化したのがこの年。
オールドエコノミーというのは高度成長時代のように、大量生産―大量消費システムのなかで、企業の安定的活動と経済規模の全体的な拡張が期待された時期の経済システム。終身雇用・年功序列・「サラリーマン―主婦型家族」などの安定的な社会システムが可能となった。一方、グローバル化やIT化の進展によって、1990年代に入るとニューエコノミー化が進んだ。ここでは、多様な商品をなるべく安く人々に提供するための競争が激化し、労働力コストを下げることが必要となった。そこで、少数のクリエイティブな能力・専門知識をもった労働者と、それを支える多数の低賃金単純労働者、という構図が出来上がった。ちなみにうちの妹も派遣社員。
それで、そのしわ寄せをもっとも受けているのが若者である。フリーターは内閣府などによると200万人くらいだというが、若者に対する正規雇用の数は、企業内にオールドエコノミー型の雇用慣行を享受する中高年がいるために、きわめて少ないのが現状。これは玄田有史が主張しているとおりであって、香山リカ『就職がこわい』が分析するような、若者の無気力ばかりが問題なのではない(もちろん無気力という現実は存在するが)。フリーターはたとえ就きたくても正規の仕事が少なすぎるのだ。
その結果、「努力しても報われない」という感覚が広がることになる。これはこのままいくと確実に社会不安の要因となる(すでに犯罪などのかたちでなっているともいえる)。あるいは、フリーターなどのなかには、実現不能な夢を語ることによって、現実を見ないでおこうとするものも多い。
夢に向かって努力すればその夢は必ず実現するというのは「ウソ」である。全ての人が希望通りの職に就けることはあり得ない。「一生」大学教員になれない博士課程入学者は年に一万人ずつ、「一生」上場企業のホワイトカラーや技術職につけない大学卒業者は、多分、年に数万人ずつ、「一生」中小企業の正社員にさえなれない高校卒業生は、年に一〇万人ずつ増えていく。これに呼応して、正社員と結婚するつもりだが、一生結婚できないフリーター女性は、年二〇万人以上発生していくのである。(127)
博士課程に進学した私に何も言うことはないが、このとおりだと思う。努力をしたのに、それが実現するかどうかわからないなら(博士課程の場合は3割が成功、7割が失敗する運命にあります)、結果を引き伸ばして、とりあえず長く現状維持的な不安定生活を続けていくしかない。そして、それが長引くほど「努力がもったいない」と感じられて、ますます期待の切り下げが難しくなる。これは、結婚や恋愛でもそう。ちょっと面白いデータだったけれど、どの世代でも、異性のパートナーがいない人の割合がどんどん増えているのだそうだ。自由恋愛によって、好きな人を選択する可能性が広まるということは、それだけ自分も選択競争のなかにさらされるということである。
そうした状況のなかにあって、あらゆる側面において、社会層の二極化が進んでいる。高度経済成長期においては、学校の職業選抜システムも機能していたし、企業内での昇進システムも存在していたし、誰もがそれなりにがんばれば人並みになれるという見通しを抱くことができた。しかし90年代以降の状況のなかでは、運良く中核的労働者になれた人間と、運悪く不安定雇用に甘んじている人間の間に、大きな格差が広がっている。このように希望が少ないと、運任せで生きるような人々も増えてくる。それが教育の次元では、学習意欲の格差として生じている(頑張っても仕方がないと考える低学力層が増えている)。また結婚でも、できちゃった結婚などに多い低所得者同士の夫婦と、強者連合型結婚(高収入同士)の夫婦との間の著しい格差が広がることが予想される。これらのことは、世代間の階層固定化ともリンクする問題である。
じゃあ、どうすればよいのか。さしあたって、これから必要なことは、ニューエコノミーに適応するようなかたちでの人々の納得を、どのようにして取り付けていくか、ということであろう。たとえば、単純労働に甘んじることが、そこまでひどくないライフスタイルであることを示さなければならない。具体的には、山田も言うように、職業訓練などの機会を通じて、可能性や希望ばかりを語るのではなく、現実的な職業内容の提示が必要となるだろう。
その意味で、もっと職業と学校との連関を持たせる必要もありそうだ。声優とか、美容師とか、フラワーアレンジメントとか、学校を作るんだったら、仕事数から逆算して作らないといけない。大学院もそれに近いが、美容師が過剰にタムロしている美容院がどれだけ多いことか。
だが、そうだとしても、家族の安定化を形成するための方策に関しては、解決案が思いつかない。今後、高所得者が一部の人間に限られていく以上、低所得者層同士の結婚が増えていくことが予想される。しかし、育児などのコストは極めて大きいので、すくなくとも経済的次元において、彼らが幸せな家庭生活を送れるようになるとは思われない。さらに、自由恋愛環境が存在するために、離婚リスクも減ることはないだろう。とすると、出来ちゃった結婚のすえ、児童虐待にあう子供なども増えつづける可能性がある。
とすると、人々が納得のうえ単純労働の仕事に就くというのではなく、やっぱり裕福でない親からネグレクトされてたような子供が、単純労働の仕事につくというという世代再生産が残る可能性はあるかもしれない。絶望の連鎖は止まらないのだろうか。南無阿弥陀仏。
最後に、教育がらみで私にとって重要な話。
……戦後日本社会は、学校における教育内容にはあまり期待せず、受験での成績(基礎学力や忍耐力のレベルを表す)や企業等に入社後の知識、技能習得(……)を重視するというシステムをとってきた。極端にいえば、パイプラインに乗ってさえいれば、特定の職業に就けるという見通しがもてたのである。教育する側から見れば、教師が実用的な知識を伝達せずとも、勝手に生徒は受験勉強し、勝手に学生は就職していってくれるという恵まれた状況にあったのである。/このパイプライン・システムでもっとも得をしていたのが、実は、教育内容を決めた文部省や各レベルの学校、そして、それを実行する教師集団だったのだ。逆に、パイプラインが機能不全に陥った今、学校で教える内容や、教師の質が初めて問題視されるようになったのだ。(165)
「人格の完成」だのなんだの寝ぼけたことを言っていた戦後教育だが、その実像は、高度成長期の労働市場への人材供給として、立派な機能を果たしていたのである。「情操教育」と「システム的合理性」との間には、戦後教育のダブルスタンダードを見出すことができそうだが、それをめぐる力学についてはこれから考えていきたい。