森岡先生は夢精のすえに…

森岡正博『感じない男』。徹底した一人称の語りでもって男のセクシャリティを暴露する、というんだが、いかんせん暴露した当人が役不足。何しろ森岡氏はオナニーをしたうえでなお、夢精をしてしまうというのだ。私は彼にアドバイスしたい。もっとオナニーの回数を増やしてみてはどうか。宮台先生は、オナニーを一日4回していらっしゃると聞く(もっとも新婚なので今は事情が違うかもしれないが)。そのくらいしたら、さすがに夢精はしないんじゃなかろうか。
私がなぜここまで森岡氏の夢精にこだわるのかといえば、それは森岡氏の現在のセクシャリティーが、彼の夢精体験と密接に結びついているからである。かれは中学生になったころ夢精し、そののち「マスターベーション」(ちなみに、この語の日本語訳は「手淫」である。私はこのような道徳的バイアスが掛かった用語よりは「オナニー」という中立的な語を選ぶ。赤川の著作を見よ!)をおぼえたという。しかし、オナニーをおぼえたのちにも、夢精が続いたのがマズかった。それによってパンツが汚れたという経験が、彼のオナニーに対するマイナス観念のもとになったからである(その意味で、かれにとってオナニーはやはり「マスターベーション」なのだろう)。彼がオナニーをどのように感じているのか。以下、見よ。

性交中や射精時には、たしかに気持ちよさはあるのだが、それはけっして「頭が真っ白になる」ようなものでもないし、「心の底からよろこびがあふれる」ようなものでもない。射精をするたびに、自分が感じているものが、ペニスの中を精液がズルズルと通り過ぎて痙攣する局部的な快感でしかなく……

写していてバカらしくなったので中断するが、とにかく、かれは射精後、空虚感に襲われるというのである。述べたように、彼は夢精をする人物で、パンツが汚れたという経験に悩まされ続けてきた。そのため、精液あるいは自分の肉体に、汚らしさを感じざるをえないのだ。
で、話はここから異様に入り組むのだが、彼の制服フェチ・ロリコン趣味というのも、どうやら、この射精に対するマイナスイメージに出発しているようなのである。彼は、「汚れた」射精体験のために、自分の男性性をそのまま受け入れることができなかった。したがって、自分が男性性へと分岐する際のイメージ(つまり思春期以前の自分)に立ち戻り、できれば、男性性を拒否する可能性について夢見たく思うようになったのである。そしてこのことが、かれが思春期の少女に「萌える」(=性的にドキドキすることの意)原因となった。森岡は、思春期の女性の肉体をまといたい。あるいは自分の精子を少女に送り込むことで、新しい自分を生み出したい。その森岡は、もはやパンツの汚さない別の森岡である。そのように生まれ変わるために、また、愛しうる真正の自己イメージを獲得するために、かれは制服少女やロリコン少女に、彼自身の別なる可能性を投影するのである(かれによれば、学校・教育と結びつきうる制服などのイメージは、少女を自分のように「洗脳」しうるとのイメージにつながるらしい)。彼はいう――「私は少女の体を生きてみたかった。この情念の一点において、制服フェチとロリコンは通底している。私は少女であり、少女は私である」(132)。
またこの点は、引用しておいた部分からも想像されるとおり、彼が自分のセクシャリティーにおいて女性へのコンプレックスを抜きがたいことの理由ともなっている。私は彼をバカだと断言するが、森岡は射精体験において、「頭が真っ白になる」体験、「心の底からよろこびがあふれる」体験を求めずにはいられない。なぜなのか。それは森岡が「少女であ」るからである*1。彼は少女であるために、女性が感じているはずの快感を追求せずにはいられない。そのため、彼が感じる射精の快感は、そうした「女性が感じている快感」からの疎外(=遠ざけられていること)形態でしかなくなるのだ。つまり、どうしても取るに足らないものでしか、ありえなくなるのである。
ちがうでしょっ!ふたたび言うけど、森岡先生、あなたに欠けているのはオナニーの回数だ。あるいは、欠けているのがオナニーの回数であることにも気づかない、自省能力だ。「頭が真っ白になる」体験なんて、べつに欠けてるものじゃないんだよ!ロリコンだ、制服少女だ、って、パンツが汚れたくらいで、ピーピー屁理屈言わないで。そういう疎外論は、大嫌い。「私は少女」だなんて、オナニーを済ませてから言ってちょうだい。ムラムラ妄想を書き連ねて、セクシャリティ研究だなんて、バカげているよ。
最後の部分で、男のセクシャリティの課題なんて書いているが、自己の身体をそんなに否定的にしか感じられない人間に、他者を肯定する力があるとは思えない。そもそも、自分の身体が汚れているというイメージからしか出発できないというのは、明白に想像力の貧困でしかないと思う。実際、それは汚れているものでもあるし、気持ちの良いものでもあるのである。他者の身体だって、同じだろう。森岡は女性の身体が無垢で聖なるものとしかイメージできないようだが(そしてそのために、少女とかロリコンとか想像上の女性を勝手に作り出すんだろうが)、清楚な女子高生だってウンコをするのである。制服少女がウンコするという事実さえ想像できない人間に、汚い部分も美しい部分も合わせ持った他者と向き合う瞬間は、けっして訪れるはずはないだろう(ちなみに著者は、倫理学者)。
まとめておこう。彼の貧しいセクシャリティーは、彼の貧しい他者認識に由来する。彼の硬直した女性観は、彼のオナニーを貧しくさせる*2。また彼の貧しいオナニーは、貧弱な一方向に彼の妄想をかきたて、その妄想がふたたび、彼の想像力を封じ込めてゆくことになる。そうした堂堂巡りのすえ、森岡先生の他者認識はいっこうに改まらない。そればかりか、先生は最終的に、「少女」になってしまうのである。先生とは、一度食事を同席させてもらったことがあるのだけれど、まずは足元の現実に向き合い、今晩のオナニーからやり直してほしいと思う。夢精でそんなに自分が肯定できなくなるなら、夢精しなくなるまでオナニーの回数を増やせばよいのではないか。それでも自分が嫌としか思えないんだったら、リアルに女性になってしまえばよいのではないか。こんな妄想本に最後まで付き合ったのだし、それぐらい要求する権利はありそうである。

*1:これは私の解釈だが、読んだ人には同意してもらえると思う。

*2:「貧しいオナニー」とは?という問題があるが、それはこういうのをいう。「射精の瞬間を振り返ってみれば、私はそのとき周囲の状況がはっきり見えている。腕の筋肉で自分の体をしっかりと支え、銃を持った兵士のように周囲をクリアーに認識した状態で、性器がひくひくと痙攣するのが、射精なのである。射精し終わったあとは、すーっと興奮が醒めていく。さっきまでのエッチな気持ちはどこかへと消えてしまい、そのかわりに、なんとも言えない空虚な感じが残るだけなのである。(29)」バカなことを言う。「エッチな気持ち」が消えたんだったら、それでいいじゃないか。そのあと「空虚な感じ」を味わわなければならない理由なんて、まったくないじゃないか。そこが森岡疎外論である理由である。別の感じ方があるはずだなどと思う必要はなく、今ある感じ方をそれ自体で肯定することも可能なはずなのだ。この可能性を考えないのは、論理的には完全にミスであろう。「記憶資源」がありすぎてもはやオカズが不要の宮台先生を見習うべし。