ブルックナー第四番

Durkheim『フランス教育思想史』をちょこっと読む。
序文と訳者解説と第1章と第2章の途中まで。
マニアックな内容のように思われるが、意外に骨太な話。
Durkheimによると、学校の起源は教会らしい。
次の問が、おもしろかった。
(問)どうして、野蛮なゲルマン人は、ローマ時代、教会を受容したのか?
(答)教会が、ローマ社会の奢侈に敵対して、禁欲主義だったから。
(答)野蛮人は、豊かなローマ社会に敵対的だったから。
要するに、敵の敵は味方ということ。
キリスト教が、貧者・弱者の宗教だったことも大きかった。
その後、カロリング朝期になると、形式的な文法教育が優勢になる。
ルネッサンス期にいたっては、それとは異なる教育内容が生まれたようだ。
なんせ、読んでいないから、詳しいことはわからないが。
とはいえ、第1章の熱弁にはとても共感した。
歴史を研究しなければ、現在は見えてこないという話。
Durkheimはそこで、新しく問題になっていることに傾倒するあまり、
過去からの遺産に盲目になってしまうのはダメだ、と語っている。
ルソーが槍玉に上がっている。

ルソーはその時代の教育が児童の自発性を充分に認めていないと考えた。ルソーはあくまでも徹底した不干渉主義を真に健全な教育の特徴であるとした。児童が事物と充分な接触関係をもっていないという理由だけによって、ルソーは事物による教育をあらゆる教育のほとんど唯一の基礎であるとした。必要ではあるが、一方的でしかない現在への強い関心の、このような圧迫的な力から免れるためには、われわれはこのような関心に対して、それと同様に考慮しなければならない他の要求についての認識を対比させなければならない。そしてわれわれはこのような認識を、現在をそれに先行する過去と結びつけることによって補足することを可能ならしめる歴史によって、はじめて得ることができるのである。(45)

一読、痛快。

明日のために、Durkheim『教育と社会学』を再読。
批判的に読み直すと、新たに変なところに気づいてくる。
Durkheimは言う。
●教育技術はそれ自体で自律的なので(=勘とか経験とかでやれちゃうので)、
教育学は、技術をささえる実践的理論として存在することになる。
●一方、実践的理論は教育科学の支えを必要とする。
●ところが、(社会学)・心理学・歴史学を基礎に作られるべき教育科学は、
今の所、まったく草案の段階でしかない。
●しかし、現在の新しい教育状況のもとでは、教育学の必要性は明らかだ。
う―ん。
いったい、これは、どういうことだろうか。
実践的理論たる教育学は、その要件を満たしえていないのでは?
(それを支える科学が草案でしかないんだから。)
草案が完成案になる日は、いつかやってくるんだろうか?
(そもそも、教育技術が自律的に存在しうる、という現実があるのに。)
教育科学と教育学とを分ける意味も不明瞭。
社会学の重みづけも、講義によって異なっている感じ。
まあ、死後出版された原稿だから、仕方がないけど。
                
駅につくと、頭のなかをブルックナー交響曲4番が流れる。
ギュンター・ヴァント、ベルリンフィルのやつ。
この旋律はときどき降ってくる。
どういう精神状態のときかは分からないけれど、宇宙を感じる。
許光俊が言いえて妙なことを言っていた。
宇宙を高速で移動すると、目の前を無数の星が過ぎ去っていくイメージ、と。
文句なしに好きな曲のひとつ。
        
今日250円で購入したのは、
ワーグナーニーベルングの指輪」のダイジェスト。
ショルティウィーンフィル
ちなみに私は、ショルティが嫌い。
ちまたの評判が悪いこともあり、それに同調しているだけかもしれないが。
しかし、「暗さ」を感じないんだな。
「人生なんてどうでも良い」というような不良性を感じない。
モーツァルトフィガロの結婚』・『魔笛』なんかは好きだけど。
ま、でも、「ジークフリートの葬送行進曲」を聴くと、骨太で悪くない。