武田鉄矢の涙と鼻水

seiwa2005-04-15

テレビをつけたら、
『幸せの黄色いハンカチ』のちょうど最後の場面だった。
黄色いハンカチが風にはためいて、音楽がバチーンと流れて。
何回か見たが、やっぱり名作。
高倉健のしかめっ面のアップが、すこぶる決まっている。
山田洋次監督だと『家族』も印象深かったが、おそらくこの映画は、
高度成長期の庶民感覚に、ずしっと訴えたことだろう。
貧しい生活を生きぬいていくためには、人生の暗部を抱えこむこともある。
そういう感覚への共感が、この映画の感動のベースにはある。
最後に、希望がすなおに語られるのもよい。
高度成長期は、そういう時代でもあったから。
この映画に関していえば、武田鉄矢の起用も正解だった。
ナンシー関が嫌い抜いたあの過剰な俗物性が、この時期にはまだ、
テツヤの内面のどこかで鬱屈している。
金八先生』のように、鼻水もろとも、発散され放題というわけではない。
こじつけと言われればそれまでだが、
このことも、高度成長期の社会を考えるうえで象徴的なのではないか。
この時代の大衆的欲望を突き動かしたのは、ある意味で、
上昇志向を剥き出しにした俗物的なエネルギーであった。
だが一方、貧困からの脱却という意味での切実さは、
あくまで純粋な希求として存在していた。
この二面性、あるいは二重性。
おそらくそれは、この映画のなかのテツヤの表情にも見てとれるものだろう。
映画が、高倉健倍賞千恵子の美しき再会で終わらないのがポイントだと思う。
最後を飾るシーンはあくまで、武田鉄矢桃井かおりの、
青臭い、性欲丸出しのキスシーン。
桃井かおりはやっぱりエエな。)
純粋な倫理性と、前ノメリの動物性。
高度成長期の日本社会には、まことに青年のメタファーがふさわしい。