レヴィ=ストロースとソシオロジー

内田『社会学を学ぶ』の片言隻句が、どういうわけか面白い。昨日の言説分析のハナシがあまりに適当だったので、その補足もかねて感想。
収穫の第一。レヴィ=ストロースが、なぜ社会学と関わりがあるのかが、ようやく分かった気がした。橋爪先生などは構造主義の紹介をしておられ、上野先生も構造主義の著作を若い頃モノされていて、どういうことだろうかと、ずっと思っていたのである。内田先生いわく、構造主義のいう「構造」は、変形に対して不変な形式のことをいう(大意)。このセリフ、聞くのは3年ぶりくらい。
Durkheimが「社会的事実」という語句でインプリケイトしたところの、個人を拘束する、社会的規範について想起してみるとよい。「社会的事実」とは、個人の主体性とか、意識とか、そういうものでとらえられるような実体ではない。むしろ個人の意識を、見えない作用要因として染め抜いているような、あるいは、自殺率といった具体的経験との相関において、はじめて見えてくるような、そういった種類の、社会全域に広がる「普遍的な力」、それが「社会的事実」なのである。
一方、レヴィ=ストロースは、トーテム信仰とか近親相姦とか、そうした目に映る現象の背後にある「規則性」を発見しようとしていた。ヤコブソンの音韻論をふまえ、(「形態素」にたいする「音素」として、)「近親相姦」にたいする「親族構造」を見出すことを試みていた。「近親相姦」とは、ほとんどの部族社会に普遍的な、目に見えるルールである。だが同時に一方では、無意識の「構造」として、個人の意識には直接浮上しないという意味での、「社会的なもの」の源泉でもある。
もちろん、こうした試みについて、若干いかがわしさを感じる向きもあるだろう。社会学というのは、個人の意識にとっては外部的な領域を「実証的」に扱うことを目指すという、ある種の不可能性を引き受けようとする部分がある(内田寄りに「社会学」を解釈するとしてだが)。19世紀学問の集団的妄想である「実証性」志向は、当然ながら、自然科学と同様には、社会学において成立するわけではない。その「実証性」とはそれ自体が、社会規範によって「染め抜かれ」たものにほかならないからである。そしてこのように考えたとき、いかにいかがわしくとも、レヴィ=ストロースの「構造主義」が、いかに社会学者にとって本質的に誘惑的であったのかが、理解される。実証性への固執というパラダイムをこえて、社会学的知の別種の営みを考えることができるのではないか、ということである。
以上で、このテーマは終了。
ちなみにわたし自身は、DURKHEIMの社会学における実証性の志向を、「19世紀的な集団的妄想」などといってしりぞけてよいのかは疑問だ。DURKHEIMは、超個人的な社会的なるものは、おもに概念体系として個人の意識内部に立ち現われるとし、それを探究することが社会学的営みであるとしている。これは依然として、十分にまっとうな研究方法であると思う。(さらに、ポスト構造主義というのは、社会学的な感性からは、だいぶ遠ざかった思潮であるとも考える。ポスト構造主義は、構造の存在を見抜く「超越論的な主体」自体の特権性を問題視するものだというが、しかし、これは哲学的なこだわりで、社会学的なこだわりとは言いがたい。一方での「実証性」への希求と、他方でのその不可能性の自覚という、混迷した矛盾を引き受けるのが社会学であるならば、なんらかのかたちで、「超越論的な主体」が実証的な問題設定をおこなうことが、どうしても引き受けられなければならないだろう。あんまり、うまくいえないけれど…。)