遅ればせながら本題

さて、フーコー
(それにしても、今食している最中の、くずだんごが美味い。)
おそらく内田の言いたいことは、
レヴィ=ストロースの件でも明らかなとおり、
社会学は、体系的・形而上学的な道具立てによっては、
けっして「社会的なもの」の実質を明らかには出来ない、
ということだと思われる。
内田はフーコーの『言葉と物』を一番評価しているようだけれど、
フーコーの可能性の核心(=言説分析の方法的可能性)には、
功利主義的な主体の表象の平面」(132)をしりぞける、
という基本的原則が見出される。
(その意味で、フーコーの問題意識は、
Durkheimの「社会的事実」論、マルクスの「物象化論」
の連続線上にあると考えてよい。)

フーコーの言説分析では、①言説を個人的なレヴェルではなく、「社会的事実」の水準で問題にし、②言説が意味することではなく、言説の「系譜学的条件」を確定することが、基本的な枠組を構成する。まず、言説はそれを語る個々人の意図や意識とは別に、他の言説との隣接関係、つまりその「集合的な連関」において同定されねばならない。次に、そのような言説の出現や機能状態を支えているいくつかの系譜学的条件を明らかにし、これによって言説の同一性を確定しなければならない。(140)

しかし、言説の意味に依拠するのではないやり方で、
言説間の構造の共通性や、差異がどのように明らかにできるのか。
その具体的な方法論は、どのように定礎されるのか。
一応、以下のように説明される。

『知の考古学』によれば、言説の同一性を確定するための系譜学的条件として、①言説の隣接関係、②言説を語る主体の制度的な場所、③言説の関説領域、④言説の物質的基盤、の四つが挙げられる。(140)

ちょっと、これでは分かりようがない感じがする。
ちなみに内田によると、このうち①と③が、
言説の意味作用を解釈する作業と重なっているために、
フーコーの言説分析は、言説をになう主体の人間学的解釈といった誤解に、
さらされることになったらしい。
つまり、フーコーの言説分析あるいは権力分析の意図は、
本来の意図を離れて、マルクス主義的に誤解されることが多かった。
「プロレタリア対ブルジョワ」という対立図式を、
社会の各領域に適応するかたちで、
たとえば、ポスコロ・カルスタ・フェミニズムが、
フーコーを消費したのである。
ポスコロは、「本国―旧植民地国」の間に権力を、
カルスタは、「文化の階層的差異」や「政治学」に権力を、
フェミニズムは、「男性―女性」の間に権力を、それぞれ見出した。
でもこれは、俗流マルクス主義の陥った、体系的・お手軽・図式だ。)
(ところで、いま背後で流しているのはクーベリックドヴォルザーク
スラブ舞曲集No.2なんだが、絶対にケルテスのほうが好いんだよな。
期待してたのに、なんでだろう。フランク交響曲は、最高なのに。)
フーコー自身は、言説の配列というか、秩序というか、
その規則のあり方に注目して、権力分析に乗り出したらしいのだが。
そういう意味では、言説分析の方法的可能性を、
フーコーを乗り越えて、さらに掘り下げていく必要があるのだそう。

……言説分析は歴史社会学という衣装をまとって立ち現われることになる。だが、ここにも大きな難関が待ち構えている。言説分析と称しながら、実際にはいくつかのテクストを人間学的に解釈したり、マルクス主義的に解釈したり、あるいは機能主義的に解釈したり、政治学的に解釈したりと、さまざまなかたちの解釈学に倒れ込んでいくからである。/そういう意味では、今日、言説分析と称するものの多くが、分析する者の恣意的な解釈学に終わっているのが現状である。(135)

すなわち、言説をその物質性のレヴェルでとらえていくということが必要。
昨日書いたことと関連させれば、物質にあらわれる「より以上のもの」としての、
「社会的なるもの」の存在を、目をこらして見抜くことが重要(物象化論)。
これこそが、言説分析の可能性の核心。
もちろん、フーコー自身もこれを試行錯誤としてしか、
深め得なかったことは、上記引用の『知の考古学』の部分でも明白。
しかし、こうした綱渡りに挑むことがすなわち、
言説分析の可能性を追求するという作業にほかならない、ともいえる。
とりあえず、知識社会学とテクスト分析にならないようにだけは、注意しつつ。

①言説を貫通する制度や権力関係を抽象的に実体化すると、言説分析は簡単に「知識社会学」になり、イデオロギー分析になってしまう……②言説を貫通する他の言説との連関や隣接関係、あるいは言説の関節領域にかかわる意味作用の軸を抽象的に実体化すると、言説分析は限りなく「テクスト分析」に近づいていく……(145)

最期に、忘れないように、一言だけメモ。
Durkheim教育学が、戦後日本において、
「現状における社会化」を容認するものとして、
その保守性を糾弾されたのは、
ブルジョワとしての「社会化」が革命的主体への必須要件である
マルクス主義が受け入れられた現実を考えると、
いかにもダブル=スタンダードだなぁ