『赤いアモーレ』

seiwa2005-04-16

『赤いアモーレ』(2004)。監督セルジオ・カステリット主演ペネロペ・クルスセルジオ・カステリット。

外科医で美しい妻とすべての冨を手に入れたはずの男が、交通事故で危篤状態の娘を前に、助けを請い奇蹟を祈るのは、今は亡きゆきずりの相手であった貧しい女性・イタリアにであった…。ペネロペ・クルス渾身の演技が愛の本質を問う!!

また、寝てしまった。でも、自分の病院に事故に遭った娘が運ばれてきて、気が動転しているはずの主人公が、いきなり昔の女を回想するはずがない。そんな回想シーンから始まったら、さすがにストーリーとして無理がある。よっぽど変な男じゃないと、そんな非常時に、過去に思いを巡らさないはずだし。
てな具合で、不満・疑問が満載だったのだが、途中からハハーン、この男、やっぱりおかしいんだな、となかば確信めいたものが湧き、少し興味が出てきた。これは、壊れた人間がテーマの映画なんだ、と。
その理由。男のセックスがめちゃくちゃ変態的。イタリアという惨めな女と、ひょんなことから知り合って、いきなり、レイプ。後日、「えらいこないだはすんまへん」(イタリア語)、と謝りにきて、もう一発。しかも行為自体が、めちゃくちゃ暴力的。ときどき、小型犬を踏んづけたりしてるしさ。
で、推理してみた。
正妻のまえで市民を演じてるこの医者は、じつは相当、反社会的な感性の持ち主なのだ。裕福な生活も、美人の妻も、この男にとっては、何ら価値をもたない。彼が生きるリアルを感じとれるのは、生存本能がむきだしにならざるをえない、限界的な状況なのだ。
そう考えると、悲惨な境遇のイタリアに惹かれたのも説明がつく。壊れた男だから、娘の事故にもかかわらず、昔の女を思い出しているのである。(実際、彼の幼年時代は悲惨な生活だったと描かれているし。)
しかし、この推理は大外れだった。
結局娘はなんとか一命を取りとめました、っていう話で終わり。なんじゃそら。
先走った深読みのあまり鑑賞を台無しにするという、いつものパターン。
(ところで、今日、「ローカルバス」という単語を見て、「カルロス・クライバー」のことが反射的に思い浮かんだ。よく見ると、たしかに字並びが似ている……などと、ユルイことを書いてみたりして。)