マジキレ高校生のエチカ

家庭教師先の男子高校生、ワタルがキレた。
ネットを見たいと言い出したので「ダメだ」と答えると、「まじダルイんだけど、ダルイんだけど」と繰り返している。そこで、「お前、そんなダルイんやったら、病院行ったらどうや」と発言してみたら、「はあ?うっせえんだよ」とみるみるうちに激昂、机を蹴りあげ、壁をバンバンバンとものすごい勢いで叩き始めた。あげく同席していた妹に、「お前、ぶっ殺すぞ」と八つ当たりまでする始末。もちろん、この「殺すぞ」発言が、私に向けられていることは言うまでもない。
この出来事から、私が感慨を深くしたことは、次の二つ。
ひとつは、小浜逸郎が述べていた青年期の心理的アンバランスの問題。どうやら、ワタルは「大人の自由」と「子どもの自由」との間で、葛藤を抱えているようだ。最近の私は彼に、「学歴がないと世の中でどれだけ不利なのか」ということを超明解に説教しつづけ、受験勉強に導こうと試みているのだが、そのことがどうやら結構なストレスを与えているようなのである。
説明しよう。「大人の自由」は、(受験勉強を含む)「社会制度」を受け入れたうえで、その制限のなかで「自己達成」を実現することによって感じとられる。一方、「子どもの自由」は、あらゆる拘束から解き放たれ、同時に「保護の感覚」を得ていることによって、感じとられるものである。
このとき、私のやっていることは何を意味するだろうか。すでに明らかなように、私はワタルがもっている「保護の感覚」を「超明解」に掘りくずし、受験勉強という「社会制度」への参加を呼びかけている。そして、この「大人の自由」への「跳躍」が彼にとっていまだ難しいものである以上、このことは、彼の心理的葛藤へと容易に転化するのである。
次に、二つ目の感慨について。唐突だが、スピノザの話である。
じつは私は、小学校6年からずっとワタルを教えてきた。その時間をふりかえった場合、私にとって彼の感じている「心理的葛藤」とは、あくまで「必然的」に生じてきた感情にしか見えない。そりゃ、これまで勉強していないうえに、私の(繰り返すが)「超明解」な説明で攻め立てられているんだから、暴発もするわけだ。しかしそれは、これまで勉強していなかったことのツケが回ってきただけのことであって、客観的には生じて当然のストレスでしかないのである。
で、スピノザは「石」をめぐる次のような思考実験を展開している。
「例えば、石は自己を突き動かす外部の原因から一定の運動量を受け取り、外部の原因の衝撃がやんでから後も、この運動量によって必然的に運動を継続します」。この後、以下のように続く。

さてこの石は、運動を継続しながら思考するものと想像してください、そしてできるだけ運動を継続しようと努めていることを自ら意識するものとしてください。確かにこの石は、自己の努力のみを意識し、それについて決して無関心でないから、こう考えるのでしょう。自分は完全に自由だ、自分が運動に固執しているのはただ自分がそうしようと思うからにほかならぬ、と。そしてこれは同時に自由のことなのです。すべての人は、自由をもつことを誇りますけれども、この自由は単に、人間たちが自分の欲求は意識しているが自分をそれへ決定する諸原因は知らない、という点にのみあるのです。(『スピノザ往復書簡集』書簡58)

スピノザはこうした議論によって、「神」の擬人化をしりぞけ、「神」を「自然」に帰すことを意図していたらしい。そして、このことを「自由」という面から考えると、以下のように論じることもできる。
小浜の議論と関連させて、思考してみよう。ここで「子どもの自由」とは、さしあたって「石の自己意識」としての「自由」であると考えられる。一方、「大人の自由」とは、「自分の欲求」とは関連なく直面させられる「社会制度」を、主体的に引き受けなおすことを意味するものであり、「自己を突き動かす外部の原因」をそのまま肯定的に引き受けたところに成立する「自由」であると考えてよい。
とするならば、「大人の自由」とは、「自然」に「神」を感じる態度に通じるものにほかならない。言いかえれば、「自己意識」を絶対的なものとみなすのではなく、それを変容させる「事物」を素直に受容する態度こそが、大人の態度なのである。
と、まあ、こういう小理屈を聞かせてやったとしたら、ワタルは本当に「ダルく」なるに違いないだろう。いずれにせよ、若者言葉には注意が必要である。(ちなみに以上の話は、雑誌『本』5月号(講談社)「スピノザから見える不思議な光景」(上野修)に触発されたもので、引用はすべて重引です。)