石川啄木

たんたらたらたんたらたらと
雨滴(あまだれ)が
痛むあたまにひびくかなしさ(『一握の砂』)

火曜日は忙しくてこまります。
現実逃避をさせてください。

不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心(『一握の砂』)

行ったなぁ、盛岡。
ジャジャ麺と冷麺、食ったよなぁ。
盛岡城址の岩手公園にも行ったなぁ。
Y君に雪を投げつけながら、啄木に思いをはせたなぁ。
以下は、関川夏央の記述。

啄木は明治三十九年十一月二十二日の夜から『林中書』を書きはじめた。彼はこのとき満二十歳で、岩手県渋民尋常高等小学校代用教員をつとめていた。/明治三十三年、小学校令が改訂され四年生義務教育がなった。授業料は廃止され、明治二十八年には六一・三パーセントだった就学率は三十五年には九〇パーセントを越えた。啄木就職の翌年、明治四十年には六年制義務教育も実現して就学率は九七・四パーセントに達し、現在あるような日本の高度大衆化社会への方向がはじめて示されたのだった。その結果、とくに初等教育担当教員の絶対数が不足して、中学四年中退の啄木でも安月給ながら就職できたのだった。(ちくま日本文学全集石川啄木」454)

で、啄木は『林中書』で、次のようなことを書いている。

すなわち、教育の最高目的は、天才を養成する事である。世界の歴史に意義あらしむる人間を作る事である。それから第二の目的は、かかる人生の支配者に服従し、かつ尊敬する事を天職とする、健全なる民衆を育てる事である。(237)

ふたたび、関川夏夫。

『林中書』は学校という制度への軽侮と批評とに満ちている。啄木は高等小学校までは「神童」だった。盛岡中学の入学試験では合格者百二十八名中十番、秀才に落ちた。一年生二十五番、二年生四十六番、三年生八十六番とさげつづけ、四年生では八十二番ときわどく維持したものの、成績の上では凡才のひとりとたやすくなり果てた。(461)

啄木は、自分が天才であるとの考えを維持するために、それを認めなかった学校教育にたいして、次のような形でルサンチマンをぶつけ、正当化を試みている。

曰く、人には誰しも能不能のあるもの。得意な学科もあり、不得意な学科もある。そして得意な学科にはおのずと多量の精力を注ぐものであるのに、一切の学科へ同じように力を致せと強うる教育者、――ツマリ、天才を殺して、凡人という地平線に転がっている石隗(いしころ)のみを作ろうとする教育者はないであろうか。如何。(239)

しかし、晩年(といっても26歳で死んだのだが)、彼の浪費癖をとがめる妻と姑との関係が悪化するなかで、啄木は「おのれを特別視し、他をいたずらに軽んじる態度から自由にな」り、「短期間の社会生活のうちに急速におとなびた」と関川は述べている(465)。

『石川はふびんな奴だ。』
ときにかう自分で言ひて、
かなしみてみる。(『悲しき玩具』)

はずれまで一度ゆきたしと
思ひゐし
かの病院の長廊下かな。(『悲しき玩具』)