音楽と本

ムラヴィンスキー指揮、レニングラードフィルの「チャイコフスキー第五番」「第六番」が入った廉価版中古CDを買った。ムラヴィンスキーのCDは他にも、Altus社の日本ライブを二枚持っているのだが、とくにワーグナータンホイザー序曲とか、ニュルンベルグマイスタージンガーとかは、あまりに禍禍しすぎて(金管のつんざくような音圧がすさまじすぎる)、気分良く鑑賞するには、私にはどうも修行が足りないようである。これが、紛れもなくスゴイ演奏であることは伝わってくるのだが、あまりに音の強弱が振幅しすぎるので、気の弱い私などは、聞いてる途中でびっくりしてしまうのである。(そういや、ブラームス第三番のラジオ放送を収録したCDも持っていたけれど、あれはお気に入り。音質が悪いと、なんとなくホッとするのが、ムラヴィンスキー。)
とはいいつつも、チャイコフスキーはまさにロシアの本家物ということもあって、もちろん、おおいに期待して聴いた。
で、その結果だが、良いか悪いか、で言うと、まあまあ良いと思う。
『悲愴』なんてのは、やっぱりこのくらい大げさに「振幅」してくれないと、チャイコフスキーの暗〜い気分が伝わってこないだろう。極端に躁だから、鬱のときも極端になるわけだ(第三楽章の狂騒と第四楽章の絶望)。
ロシアは西洋音楽後進国だったから、チャイコフスキーも、本場以上に本場の正統的書法を意識していたなんてことを聞いたことがある。そして、チャイコフスキーにおける「懊悩」の感情は、その正統的な規範からのギャップのなかで生まれてきたように私は思うのである。その感じは、ムラヴィンスキーにもうかがえることである。印象だが、レニングラードフィルは、ひとつひとつの音符を(強弱も含めて)はっきりと表現し、そのそれぞれの響きを、正統な枠組みを踏み外さずに味わわせるといった雰囲気がある。この正統的な枠組みをふまえたなかで表現を探っていこうという感覚は、やっぱりロシアならではではないのかな?、とね。まあ、トーシローのたわごとだけどもさ。
それにしても。
まあ、こんだけ騒いだり、落ち込んだり、出来るのって、ほんとは人間らしくて、幸せなんじゃないか、と『悲愴』を聴いてて私は思うわけ(いきなり桃井かおり風)。チャイコフスキーは自殺しちゃったけども、どうかんがえても濃密な人生だったよね、と。
つまりこういうこと。ロシアに西欧が屹立したように、あるいは、ヨーロッパ世界が神を戴いてきたように、超越的な正統性感覚とか、規範意識とかがないと、悩みすら生まれないのだ。人間を人間であらしめるためには、なんらかの「外部」がないといけないんじゃないか、と私は思うわけなのだ。
まあ、マルクスの話で言っても同じことだろう。マルクスの物象化論っていうのは、「外部」がないという話である。で、外部がないとしたら、あくまで内部にこだわって、そのなかで格闘していくことが要求されるわけで、それが「自由」という観念の書き換えをともなうことなんかは、昨日のスピノザの話なんかとも関わる議論(サンシモンの新キリスト教なんかもその気がある)。
で、いずれにしても、現代の社会が急速に「外部」を失いつつある社会であることはまちがいなくて、これがほんとに問題なわけである。そもそも、冷戦社会が崩壊して、「社会主義」というイデオロギーの「外部」がなくなったことが決定的だった。なんらかのビジョンなり可能性を探っていくとしたら、これからは、「資本主義」を前提に、その内部で進めていくしかないことが明白になって、チャイコフスキーには感じられたような「外部」を、世界のどこに設定すればよいのか、現代人は迷うことになったのである。
もちろん、そうであればこそ、思想的に「外部」を否定したマルクス思想(=「疎外論」から「物象化論」へ」)は、現在こそポテンシャルが試される時代に入っている、との主張は十分可能であろう。そして、今日読んだ的場昭弘マルクスだったらこう考える』にも、そういうことが議論されていたのである。
しかし、この本は、正直、インパクト不足だったなぁ。「ネグリネグリ」って、子どもみたいにすがるのは、もうやめたほうがいいと思う。「マルチチュ―ド」なんて概念は、「外部性」が否定されたことの自覚のもとに提出された概念だろうが、だからどうした、と私などは思ってしまう。的場さんは、労働組合の今日的意義(もちろんマルチチュ―ドとしての意味を担わせているのだと思う)をさかんに喧伝し、またけしかけているのだけれど、なんだか滑稽な感じがしてならないのは、「的場さん、あなたがそれをけしかける際の『価値規準』は、それ、どっから出てきたの?」、「誰もが内部にいるはずのに、なんだか普遍的な意義があるかのように語っているじゃない?」、といった疑問が湧いてくるからである。
とするならば、普遍的な「価値基準」を、さしあたっての「外部」に設定する試みに乗り出すしかないんじゃないだろうか、と思う。的場さんの場合だと、暗黙のうちに、マルクスを特権的な「外部」にしてしまっているようなのだが、それを明示的に認めていくような語り方をしていかなくてはならないんじゃないだろうか、と思う。一方では、「悩みがないことが悩みです」みたいな、ゆるーい集団自殺なんかが流行っていたりするわけで、まことに混迷は深いのだが、人が人らしく、意味に支えられて生きるってのは、もう無理なのかしらねぇ。