廃墟のなかの天使――『歴史哲学テーゼ』

seiwa2005-05-05

困ったときの思想史ネタ。今日はベンヤミン『歴史哲学テーゼ』。
今村仁司ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』(岩波現代文庫)によると、ベンヤミンが切りひらいた方法論は、マルクスの問題意識と共通するものだったという。それは、次の背反する二つの課題を、両立しようと試みるものであった。
まず、学問というのは、どこかで世界をメタ的に語らなくてはならない。

第一に、人間は世界を考察し、それについて言語をもって語りつつ、意味のある発言をする、つまり概念的に語るときには、あたかも現世超越的な、イデア論的な語りをすることは避けることができない。その意味ではイデア論は人間が言語をもって思考するかぎりは、必ず一度は通らなくてはならない道である。それはたんなる妄想でも虚偽意識でもない。(8)

だがしかし、メタ的立場の普遍性というのは、同時に厳しくその資格が問われなくてはならない。

第二に、しかし、イデアを語る当の人間は現世のなかで生きているのであるから、概念的に語る人間の現実存在をも語らなくてはならない、つまり概念的に(イデア論的に)語る人間がこの世界のなかでどう「生きている」(生活している)のかをも説明しなくてはならない。あるいは主観に即していえば、概念的に思考する自己がどのようにして概念(またはイデア)を獲得したのかを自覚しなくてはならない。要するに、思考する人間が現実的歴史的世界のなかにあることを、ひいては身体的=物質的生活をしていることを自覚しなくてはならない。(8)

こうしてみると、俗流マルクス主義が、唯物論に傾くあまり、第一の立場を軽視(そして隠蔽)してきたことは明らかだろう。それに対して、ベンヤミンが考えたことは、いかにしてイデア(=観念)の力を、唯物論のなかに正当に位置づけていくか、ということだった。とはいえ、このような方法論がきわめて困難であることは、すでにして明白である。
そこで、ベンヤミンが採用した方法は、次のようなものだった。どこかに終極的なかたちでイデアを設定すれば、現実的歴史的な具体性が損なわれてしまう。また、具体的なものだけにこだわっていては、観念のもつイデア性が損なわれてしまう。この両者を止揚する方法は、「歴史的唯物論」の方法である。
ベンヤミンは、『歴史哲学テーゼ』の有名な章句(Ⅸ)で、このように書く。

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。(64―65)

われわれが歴史を語るとき、さまざまな出来事は一つの「連鎖」として再構成される。それは、現在の関心(=イデア性)に照らして、ストーリー化がほどこされているのである。だがそのとき、ひとつのストーリーからは、漏れ落ちてしまったたくさんの歴史的事実が存在することを忘れるべきではない。あるいは、そうした事実がもっている潜勢力は、やすやすと無視されてしまっているかもしれないのである。それゆえ「歴史の天使」は、そこに「事件の連鎖」ではなく、「廃墟」を積みかさねる「カタストローフ」をこそ見る。そうした「カタストローフ」にこそ、具体的なものとイデア的なものが一体となりうるような、新しい可能性がありうるのだ。「歴史的唯物論」とは、まさにそのようなものとして構想されている。
だが天使は、「進歩」という「強風」に抗しえない。

たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、〈この〉強風なのだ。(65)

ところでベンヤミンは、テーゼⅩⅢにおいて、社会民主主義の教条性を批判しつつ、次のように述べている。

歴史のなかで人類が進歩するという観念は、均質で空虚な時間をとおって歴史が信仰するという観念と、切り離されえないものである。こういう進行の観念にたいする批判が、一般に進歩という観念にたいする批判の土台を形成せねばならぬ。(73)

「均質で空虚な時間」とは、B・アンダーソンなどにも援用された概念として有名であるが、これは近代が生み出した時間感覚にほかならず、マルクス主義もまた、こうした近代性に大きく依拠した思想であったのである。とするならば、この「強風」に抗おうとしたベンヤミンは、近代の思想的パラダイムを離れ、いかにしてイデア(=観念が持つ可能性)が実現するのか、を問うた思想家であったと考えてよい。そしてこの問いは、ベンヤミンがその可能性を汲み尽くしたマルクスにおいても、やはり深く共有されていたのである。チャンチャン♪♪(←予定調和)