吉田茂『回想十年』

最近、ようやくブログを書き慣れてきた。やっぱりあんまり密度の濃いことを書こうとすると失敗するので、気になったことをピンポイントで書くのがよいみたい。またネット環境が整備されて一ヶ月間、ネットはかなり面白い。色んな人が色んなことを考えて、膨大な情報を書き連ねているのだから、いまさら自分のオリジナリティを追求するなんて、アホらしく思えてくる。とりわけ時事ネタなんぞを床屋政談風に書いたところで、それに類する情報はすでに溢れかえっているわけで、まるで意味なし。あくまで自分の問題関心にそった情報を、メモ風に書き留めていくのが、このブログの存在意義ではなかろうかと。ついでに、コメント欄を通じて「オン会」が盛り上がれば、これまた言うことなし。ITレボリューション万歳。
さて、今日は吉田茂に脳内のシナプスがピピピと来たので、吉田茂『回想十年2』から、第十章「文教政策をめぐって」のメモ。
これまで革新勢力の教育言説ばかり読んできたということもあり、まずは、敗戦直後の日本人について吉田茂が「つくづく感じていた」という印象に、興味が引かれた。

戦争に敗れて、一等国民だというメッキが剥げたら、日本人は、何んと情けない醜態をさらけ出していることか、自分も日本人である故に恥かしくてたまらぬという感じを持った。国家とか、軍部の力とかを笠に着て、大して内容もないのに、威張りちらすくせが、日本人の間に前からあり、戦前も戦前中も、私はそれを苦々しく、恥かしく思っていたが、今度は国家が負けたとなると、まったく意気地なくなり、すっかり卑屈になって、外国人の言うことだとなると、何でも彼でも御無理御尤も、事あれば、アメリカ人に哀訴嘆願するという体たらくの日本人が、続々と巷にあふれた。巷ばかりではない、指導的立場に立っている人々の中にも、政界や実業界や学界や、どこでもかしこでもそういう類いがすくなくなかった。(108)

そこで吉田茂の文教政策は、「日本人の人間性をたゝき直さなければならぬ」「夜郎自大のくせを直し、外国のだれからも信頼され、敬愛されるような人間に、日本人めいめいをしあげなくてはならない」「日本人の一人一人を、裸一貫の人間として、自分というものによい意味のプライドを持つ人間に作りあげなければならない」(109)、といった理念を根本にすえて進められることになった。
ここら辺は専門なので一言しておくと、じつはこのような吉田の認識は、革新勢力とまったく共通したものである。「外国人となると…」「アメリカ人に哀訴嘆願する…」の箇所は、吉田のアメリカ嫌いが露骨に表れているものの、革新勢力(とくに近代主義者)もまた、「日本人の主体性の涵養」を重要な課題として位置づけていたし、共産党をはじめとする勢力も、「愛国」を唱えるなかで、「コスモポリタン」を排したナショナリズムを主張していた。では、両者の間では何が本質的に異なっていたのか、と問いを続けたいところだが、今回はそれには深追いしない。
さて吉田茂は、アメリカ主導の教育改革について、次のような理解を示している。

その一番中心をなすものは、いわゆる六・三制の学校制度である。これは、義務教育のレベルをひきあげ、まだどの子供も力さえあれば、大学まで進めるという、公平な制度であり、建前としてはよいと思った。いったい、この考えは、明治時代菊池大麓氏あたりも研究して既に出している案だし、戦争中近衛公が中心になっていた昭和研究会でも、これに類した教育の機会均等を目ざしたけ威嚇を作っていたのである。だから、六・三制という考え方は、そもそもアメリカの専売特許ではない。……だから私は、アメリカの教育使節団や、教育刷新委員会の研究した結果そのものには、大体賛成であった。(111−112)

しかし、吉田によれば、ここには重要な問題が二つ残っていたという。第一に、「学校制度をよくするのはいゝが、何が、教育の精神的中心であるか、そしてそれを具体的に示せるか」という問題(112)。第二に、「六・三制には莫大な経費がいる」、「戦前日本の最盛期ですら、六年の義務教育がやっとのことであった」、「たゞでさえ、食うものにさえ事欠いているのに、国民にそんな負担を、むやみやたらに強いられるものではない」という問題(112)。
したがって吉田は、文教政策について、「とにかく、いゝことはいゝのだ。しかし、むやみに急いでは事を仕損じる」というスタンスを取っていた(113)。しかし、「世論も教育関係者も、無理にもどんどん進むがよいという意見を出し始め」、「そのうちに何んでもかんでも二十二年から六・三制を実行せよという考えで、占領軍司令部が押してくるようになった」という(113)。

まじめに敗戦後の日本の状態を考えれば、趣旨はいゝが、国民経済が復興してゆく状態とも照らしあわせて、順々に小学校、中学校、高校、大学と、新制度にきりかえてゆくのが賢明だという、田中文相だちの考えは当然である。これが文相たちの立場である。ところが、二十二年から、三年の間に毎年毎年小、中、高、大学と新制度にきりかえてゆけというのが、総司令部の態度だから、当局者は弱ったわけである。(113)

ここで当局者というのは、田中耕太郎文相や次官山崎匡輔をはじめとする人々のことである。吉田は、「理想はいゝが、理想を地に移して実行する人々の苦しみを、私はこの問題で、殊に強く感じている。だから、今も関係者の労苦を、日本国民はよく考えなければいけないと思う」などとまっとうなことを述べているが、この制度改革について、革新勢力はまるで自分の手柄のように受けとめていたことを私は良く知っている(114)。「アメリカの占領軍行政官の若い人々の善意ではあるが向う見ずな意見」などと吉田は皮肉っているが、それはまったくもって正当な指摘だろう。
もちろん、丸山眞男であれば、このような理想は「現実は変えられる」という意味での「現実主義」にもとづいている、と診断したことだろう。だが、これは谷沢永一でなくとも、「魔術的擦りかえ」と言われてしかたない詭弁でもあり、そこらへんのことを吉田茂は冷静に判断しているわけである。最近は、私は、こういう現実主義者の議論の方を好んでいる。
以下は、吉田の苦言集。

そこで当時私はこう考えた。どうせ大学が濫設されたところで、肝心の先生がいないだろう。いゝ先生のいない学校は評判もよかろうはずはないから、生徒も行かないだろう。……ところが実際には生徒の人数が年々ふえてゆくものだから、悪い学校でもつぶれもせずに存続しており、「駅弁大学」などという言葉さえできる始末である。(116−117)

どうしても、私は、日本国民全体に通じる生きた教育信条というようなものを、はっきりと打ち出す必要があると、ますます思うようになった。……すくなくとも、「教育勅語」のあったほうが、生きた道標の何もないよりまさっているとも思う。(118)

……教員の問題だが、大学の先生も小学校の先生も、どうも教育上の見識がない人が多いように思われる。はっきりとした態度で若い者を指導し、みだりに世の中の流行的な風潮に動かされず、民主的に物事を判断する習慣や能力を育てるべきであり、また基礎的な知識がしっかりと身につくように指導すべきであるのに、進歩の名の下に、むしろ若い者の意を迎え、子供たちをたゞ甘やかしているような傾きが強くなった。(118−119)

というような次第で、第三次内閣では、オールドリベラリストらを集めた文教審議会を作り、また天野貞祐文相に「国民実践要項」を提言させたりしたのだが、この部分だけを見てると、国民を道徳的に感化できるというナイーブさを感じてしまい、だとすると近代啓蒙主義者とまったく変わらないよな、とも思うわけである。まあ、やはり吉田茂のほうがリアルだとは思うんだが。うーん。
ちなみに、福田君の『総理の値打ち』によると、吉田茂は占領中は「68点」、独立後は「27点」(小泉は29点で、村山富一の28点より低く、最下位の近衛文麿17点から数えて二番目)。何でも、「占領軍の利用の仕方が巧」く、功罪ふくめて、「占領下において、あたかも日本が大国アメリカにたいして、イーブンな交渉をしたかのような幻想をもたせた」のだそうな。
福田によると、「軍備をせずに経済を優先したというのも伝説にすぎない」のだそうで、吉田はただ単純に、「中国の共産化に直面して、それまでの政策を一挙にくつがえした」アメリカに怒りを抱き、「アメリカに極東防衛の任務を委ね続けることをもって復讐とした」にすぎない、それは「奴隷の復讐」でしかなかったということだそうだ。さらに占領軍を利用して、鳩山一郎河野一郎を追放しつづけたことも「亡国の所業」であると福田は評価していて、すなわち、吉田のすべての行動原則は「権力欲」にもとづくものだったと言いたいらしい。『回想録』を読んでいるかぎりでは、そんな風にも思えないが、実際のところはどうなんだろう。

回想十年〈2〉 (中公文庫)

回想十年〈2〉 (中公文庫)