土井隆義『〈非行少年〉の消滅』

ゴールデンウィークも最後だし、それらしいことでもしようかと、御茶ノ水の中古CD屋のモーニングセールにいく。ムラヴィンスキーグラズノフ交響曲第五番・チャイコフスキー『眠りの森の美女』抜粋」(レニングラードフィル、1979)、セル「『ニーベルングの指輪』ハイライト」(クリーブランド管弦楽団、1968))を買う。15%オフ。
その後、神田古本屋街にゆく。日曜だし閉まっているだろうと予想したが、何軒か開いている店があって、本を一冊買う。土井隆義『〈非行少年〉の消滅―個性神話と少年犯罪―』(信山社、2003)。3500円が800円で、お買い得。
飯田橋まで歩き、喫茶店に入って読むべき論文集を眺めていたが、つまらないので土井の本を読み始めた。既知の情報も多いが、素材はそれなりに魅力的だし、章ごとのテーマの組み合わせも興味深くて、アタリ。
冒頭の数章は、「凶悪犯罪」が増加しているというのは統計的に誤り、という聞き飽きた話から始まる。しかし続く章では、「凶悪犯罪」がそれまでのように反社会的動機で行なわれるのではなく、暴発型のものになりつつあることの社会学的説明がされていて、これは面白い。
強盗・殺人などの「凶悪犯罪」をおこなう少年の今日的特徴は、次の通り。

……関西の少年院に勤務するある法務教官は、少年院に入所してくる最近の少年を「パチモンですわ!」と評している。パチモンとは、大阪弁で偽物という意味である。従来、少年院には、非行キャリアがかなり進行し、いわゆるワルとしての人格形成の進んだ少年が多く収容されていた。したがって、少年院のプログラムも、その確立された反社会的な性格や信念の矯正をめざして組まれてきた。ところが、昨今は、重大犯罪を起したために少年院に収容されはしたものの、たんに性格が幼いだけで、矯正の対象とされるべき確立した信念体系が少年のなかに見当たらないので、適切なプログラムを組むことができずに教官の側が途方に暮れてしまうというケースが増えているというのである。かつての入所少年と比較すれば、最近の少年は、何とも頼りげない偽物にしか見えないようである。(42)

土井によると、これらの非行少年には、総じて他者についての想像力が欠けている。そして、その根本原因は、彼らの言語の不足にあるという。

現代の少年たちは、自らのふるまいに対して言葉による根拠を与えることに然したる意義を見出さなくなってきている。彼らのふるまいは、いわば言葉以前にある内発的な衝動や生理的な感覚の発露であって、言葉によって構築される観念や信念に根ざしたものとは感受されなくなってきている。(51)

「言葉での表現があまりにもできなさすぎるんです」(52)と、ある家庭裁判所調査官は語っているらしいが、現場の人々の間で、このような感覚はひろく共有されつつあるらしい。これに関して、土井は以下のように述べているが、正論であろう。

自己の同一性を確保するのは言葉である。言葉によって構成される思想や心情が時間を超えて継続しうるのに対して、自らの直感や衝動に由来する生理的な感覚は「いま」のこの一瞬にしか成立しえない。衝動や感覚といってものは、状況依存的で容易に変化するし、しかも長続きしないきわめて刹那的なものである。(53)

ところで、かつての非行少年は、自らの罪悪感を中和するべく、言語による「中和化の技術」(サイクスとマッツァ)を用いたものだった。いわば「言い訳の仕方」といえるが、これには以下の五つのパターンがあるという。

「責任の否定」とは、その行為が引き起こされたのは自分のせいではない、たとえば、グループのリーダーに命令されて、自分は仕方なく殴ったのだ、といった正当化の仕方である。「加害の否定」とは、その行為によって現実に損害を被った人間はいないではないか、……といった正当化の仕方である。「被害者の否定」とは、その行為が引き起こされた原因は被害者の側にある……といった正当化の仕方である。「非難者への非難」とは、大人たちには非行少年を責める資格などない、彼らだって裏では悪いことをしているではないか、といった対抗クレームの仕方である。最後の「高度の忠誠への訴え」とは、自分は仲間のためにその行為をしたのであって、私利私欲のためにしたわけではないのだから許されてしかるべきだ、ときには法に背いてでも守るべき価値がある、といった状況定義の仕方である。(35)

この分類パターンは面白いなぁ。いずれにせよ、現代の非行少年は、そもそもこのような合理化を必要とするほどに、罪を犯すことへの自意識が存在していない。本質的な問題は、ここにあるのだ。
それをふまえれば、現代の少年犯罪を理解するためには、若者論、現代社会論へと議論が展開されなくてはならない。そして本書も、そのようにテーマが展開する。土井によれば、現代社会は、近代が成熟することによって、言葉によるコミュニケーション、すなわち対話を可能にする社会的条件が掘りくずされているという。まずは、近代過渡期のコミュニケーション条件は、どのようなものであったか。

かつて、人びとの欲望が同質的であった時代には、人びとの感受性もまた重なりあう部分が大きかったから、他者と対話する技法はとりたてて必要ではなかった。人びとの欲望の類似性は、集団の構造化を容易にし、集団の構造に各自が埋めこまれることによって、安定した人間関係が円滑に営まれていた。……欲望が同質的・彼岸的であったがゆえに、そこには構造的な集団が成立しえたし、そのことが人間関係の濃密さの体感度を高めてくれていた。(153−154)

一方、現代社会は、各人に主観的差異化の欲望が働くため、どうしてもたがいが異質な関心をもつ社会状態を生んでしまう。そして、「自己と他者の同置性が損なわれることによって、たがいの理解不可能性がクローズアップされ」(155)る結果、そこでは、きわめて高度な社会的文脈の解釈能力(コミュニケーション能力)が必要とされる社会が帰結されるようになる。
そこで、土井が指摘するのは、学校教育の問題である。教育現場では、このような必要性とは逆行するコミュニケーション環境が存在しており、きわめて憂慮すべきである。

このような新たな社会状況が生まれているにもかかわらず、わが国では、とりわけその学校現場では、いまだに集団主義的な行為規範が根づよく残存したままである。だから、自己の再帰性があらわになって、集団性の存立基盤のほうは早々と崩壊してしまったにもかかわらず、そして、たがいの葛藤の解決が必要な事態はむしろ増えているにもかかわらず、異なった個と個が対決し、そして対話する技法は、いまだ何も用意されていないに等しい。(155)

正しい認識だろう。なかでも、つぎの例示は、かなり良い。

現代の学校教育は、他者とは異なった意見を戦わせるなかで互いの個性を見出していく教育ではなく、自ら感じたままを勝手に語ることを個性の発揮とみなす教育におちいっている。たとえば、ある「いのちの授業」を受けた生徒たちは、その感想を「答えが一つでないので思い切って意見が言える」「他人の考え方に口出しはできない、逆に意見を言ってもむやみに反対されないところがいい」などと述べている。(155−156)

つまり、何かと問題が起きると、校長先生が「全校集会でいのちの大切さについて話しました」なんてことをおっしゃるが、こういう「他者との間で摩擦の生じようがないテーマ」を設定し、満足している教育システムの能天気さこそが、もっとも問題的なのである。このようにして教育現場からは、他者の他者性を学ぶ機会が失われることになり、したがって(もはや同質的な社会規範によっては支えられることのない)アイデンティティも宙づりとなり、ひいては言語を媒介とする対話能力は高まらなくなってしまう。子どもはタコツボ化した同調圧力集団のなかで、刹那的な内発的感情のみを共有しあう関係を築くのだが、「外部に投錨点を持たない『個性的な自分』の追求は、自己に対する誇大妄想を無限に肥大させていく」(192)だけであって、それでは、異質なモノと関係性を構築していくことは、ますます困難になっていくばかりだろう。
以上をふまえ、私なりに整理すると、ここからは次の二つの病理的パターンが帰結されるだろう。
なまじ言語能力がある場合には、AC系をはじめとする、内閉した自己語りの道が開かれることになる。このタイプは、言語的な根拠づけによる、社会的退却の傾向を帯びるようになる。たとえば、ひきこもりは社会的関心がかなり強いというらしいが、こっちのタイプに入るんじゃないだろうか。言語能力があるということは、社会性を認識しうる能力があるということである。しかし他者の異質性は以前の社会よりも増しており、そこに挫折感を抱く余地が出てくるのである。
一方、それほど言語能力のない場合には、こんな風になるのではないか。たとえば、刹那的に(動物的に)タコツボ化集団に同調しつつも、気に入らないことがあると、暴発的に犯罪へとつながるような行為をしてしまう。まあ犯罪とまではいかなくとも、たとえば香山リカ就職がこわい』が指摘するように、些細な自己否定の体験によって、社会性が必要な場に出ることをすぐにあきらめてしまうことになる。フリーターのなかの一部の層は、そういうパターンなのではないか。とはいえ、彼らは動物化しているので、それが問題であるとは思わない。「うざい」「面倒くさい」といって、すべてのことが合理化されてしまう。とするなら、こっちの方はそれほど病理とはいえないけれど、たとえば「ガミガミいう親がうざかったので、殴ったら、死んだ」とか、そういう犯罪を引き起こす危険は高いのではないだろうか。
ちょうどタイミング良く、NHKスペシャルで「少年院」のドキュメンタリーをやってたけど、これを見てても、言語能力のないやつが凶悪犯罪をするってパターンは明らかな傾向のようである。担当官は「処遇」で、「どうしてやったんだ」「何とも思わないのか」などと、むなしい教育をしているが、ディベート教育とか、小説をたくさん読ませるとかしてみるとどうだろう。「内省の時間」とかいって眼をつぶらせて反省させてたりするけども、こういうのは時代遅れだと思うよ。「マンガ・小説を読ませて要約させる」とかじゃ、どうだろうかね。

非行少年の消滅―個性神話と少年犯罪

非行少年の消滅―個性神話と少年犯罪