『眠れる森の美女』と柳田國男の詩的イメージ

先日、神田でムラヴィンスキーのCDを買ったと言ったが、あれから何回も聴きつづけた。聴けば聴くほどに素晴らしい。『グラズノフ交響曲第五番』も良いが、チャイコフスキー『眠れる森の美女』は文句なしの美しさ。例によって、許光俊先生『生きていくためのクラシック』(光文社新書)から叙述を引こう。

…一九七九年来日時のチャイコフスキー「眠れる森の美女」(抜粋)は、最初の音が鳴り出した途端に度肝を抜かれること間違いない驚愕の名演奏だ。このメルヘン・バレエをこれほどまでに気が狂ったような激しさで弾きはじめた例は他にない。まるで絶望のあまり乱心したリア王のようだ。凄惨な悲劇だ。

とはいえ、ここで味わうべきは、チャイコフスキーの旋律の美しさ。

が、扉が突然開き、夢見るような音楽となる。そう、この悲劇から夢のような幸福の世界へのワープ。これが「眠れる森の美女」の本質だ。

そして、この美しさの核心にあるものは……

けれど、やがてヴァイオリンの美しさきわまる歌が流れはじめると、わかる。ここに表現されているのは幸福そのもの、すなわち実現された幸福ではなく、幸福への願いであることが。作曲家が片目で現実という悲劇を眺めながら、もう片目で別世界に思いを馳せていたことが。音楽が徐々に仰ぎ見るような壮麗さを増していく、その切ないこと。その壮麗さが夢から醒めるように消えたあとも余韻はどこまでも美しく、深い。

ロマン主義。で、あんまり脈絡はないけれど、柳田國男『故郷七十年』。

この祠の中がどうなっているのか、いたずらだった十四歳の私は、一度石の扉をあけてみたいと思っていた。たしか春の日だったと思う。人に見つかれば叱られるので、誰もいない時、恐る恐るそれをあけてみた。そしたら一握りくらいの大きさの、じつに綺麗な蝋石の珠が一つおさまっていた。……その美しい珠をそうっと覗いたとき、フーッと興奮してしまって、何ともいえない妙な気持ちになって、どうしてそうしたのか今でもわからないが、私はしゃがんだまま、よく晴れた青い空を見上げたのだった。するとお星様が見えるのだ。今も鮮やかに覚えているが、じつに澄み切った青い空で、そこにたしかに数十の星を見たのである。……そんなぼんやりした気分になっているその時に、突然高い空で鵯(ひよどり)がピーッと鳴いて通った。そうしたらその拍子に身がギュッと引きしまって、初めて人心地がついたのだった。あの時に鵯が鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたんじゃないかと思うのである。

こんなことを書き写したくなる私は、要するに現実から逃避したいのである。いつか時間があるときに、日本浪漫派、保田與重郎橋川文三柳田國男折口信夫のことは、かならず書きたいと思う。