『女はすべからく結婚すべし』

本日の読了本。島田裕己『女はすべからく結婚すべし』(中公新書ラクレ)。『相性が悪い!』(新潮新書)に引き続き、かなり愉しめる読み物に仕上がっており、とくに女性は読んでみると何かと勉強になると思う。
2000年度の国勢調査によると、現在の未婚率は、20歳から24歳までが88.1%、25歳から29歳までが54%であるらしい。1960年だと未婚率は、20代前半が68.3%、20代後半が21.6%。確実に晩婚化が進んでいることがわかる。
そうしたなか『負け犬の遠吠え』をはじめとして、「女性にとって結婚とは?」式のテーマがホットになっている。おそらくそこでは、これまで肯定的にしか捉えられてこなかった「女性の社会進出」という問題が、あらためて問い直されているのだろう。以前にも『オニババ化する女たち』(光文社新書)というすごい本を読んだことがあるが、本書も、そこまでラディカルではないにせよ、やはり結婚することの肯定的意味について強調する内容となっている。
島田氏によると、いまや、さまざまな意味で女性にとって結婚することのメリットが自明でなくなっており、それは女性のもとめる男性像にも表われているのだという。たとえば以前であれば「三高」といった明確なイメージがあったが、いまでは漠然とした「いい人」のイメージしかなく、たとえば「三低」(「低姿勢」「邸リスク」「低依存」)なんていうことが言われていたりするらしい。その背景には、女性の高学歴化が進んだこと、女性の職業機会が増大したこと、女性の賃金が増加し経済的自立が可能になったこと、等の事情があるが、そのことが戦後の近代家族規範(サラリーマン夫+専業主婦)を解体させ、ライフスタイルの多様化を促進した、といったことはよく語られるとおり。それにともない、結婚のイメージも不透明なものとなり、独身生活の気楽さとも相まって、結婚へのインセンティブはますます希薄なものとなっているのである(勝手にまとめたけど)。
で、島田先生の指摘で面白いのは、女性にとって、そうした男性なみのライフスタイルは、決して幸福をもたらさないということである。
そもそも日本社会においては、欧米社会とは異なり、夫婦や恋人を単位にした社交文化が存在せず、どちらかといえば同性どうしでの活動のほうがさかんである(江戸時代の村落共同体における「講」組織なんかも、そういう仕組み)。それでは、男性と女性とでどちらが同性どうしの社会的活動を活発に実現しているのだろうかというと、一見、男性のほうが社会的に恵まれていそうに思われるが、島田氏はそうではないと言っている。すなわち、企業社会がフィールドでしかない男性よりは、むしろ女性の方が、育児を通じた主婦同士のつながりなどの面で、学校や地域へとひろがる社会的つながりを形成しているのである。その差は、男性の定年退職後に、はっきりあらわれている。

社会進出ということだけをとれば、日本の女性は、まだまだその機会を奪われています。でも、奪われたものよりも多くのものを享受しているのではないでしょうか。とくに、結婚することで、女性はより多くのものを得ることができるのです。だからこそ、結婚しているかどうか、子どもがいるかどうかで、勝ち犬と負け犬が分けられてしまうのです。(45)

そのうえで、次の指摘はとてもスルドイ。要チェック。

三〇代の女性たちは、なぜ結婚しないのかと聞かれると、子育てについての不安を理由にあげたり、今はもっと自分のことを大切にしたいと思っているなどと答えます。社会の先行きに対する不安があって、だから現在の気楽で充実した境遇を捨ててまで、新しい生活をはじめようとは思わないというわけです。/……彼女たちがあげる結婚しない理由というのは、果して本音なのでしょうか。先行きや育児に対する不安が強いために結婚しないわけではなく、結婚していないという現実が先にあって、その現実を正当化するために、そうした理由をもちだしているだけなのではないでしょうか。(77−78)

たしかに、独身生活を一応は送れてしまうわけだから、結婚することのデメリットだけを見て、実際に結婚しないという選択肢を選ぶことは十分に妥当である。またそこには、なかなか「王子様」があらわれない、といった高望みなども関係しているのだろう。しかし、非日常のトキメキをその本質とする「恋愛」は、いつかはかならず終わる。そうであるとすれば、美しい恋愛などとは別の意味での幸せを、さしあたっての結婚によって実現するというやり方のほうが、賢くはないだろうか。すでに述べたとおり、結婚によって実現される社会的つながりは、人生にさまざまな果実をもたらす。このようにして島田氏は、はたして「男性なみ」をめざして独身の自由を謳歌することが、素朴に幸せなのだろうか、と世の女性に問いかけるわけである。
さらに次のようなこともある。高齢になってからの結婚だと、ライフスタイルが出来上がってしまっているので、いまさら相手の男性にあわせたり、子どものいる生活を作り上げたりすることのコストが大きくなりすぎるという問題もあるだろう。若いころであれば、試行錯誤するエネルギーのあるうちに、自然と子どもを中心とするライフスタイルが出来上がってくるという利点もあるわけである。
以上をふまえ、あえて抽象的に命題化しておくと、ここで指摘されている本質的な問題は次のようなものであると理解できる。たしかに、自由なライフスタイルを貫くという個人主義は、近代主義イデオロギーに合致しているのであるが、実際のところ、「拘束から逃れること」が素朴に善であるという命題は自明に真ではない。これまで人間は、多かれ少なかれさまざまな社会的拘束のなかで生きてきたわけだが、拘束のないところでどうやって生きるのか、ということは、まさに現代日本においてはじめて浮上したといってもよい特殊現代的課題なのである。とりわけ、女性の場合に問題は深刻だ。ライフスタイルという点で、女性の自由度はきわめて増大しており、企業社会で生きることがスタンダードである男性よりも、むしろその社会的拘束は少ないからである。であれば、広大な人生の選択可能性を前に、「自由でいいじゃん」というイデオロギーにだけ染まって生きていくだけでは、結局バクゼンとした不全感のなかで、バクゼンとした自由だけを享受した気になって終わり、ということになりかねないだろう。本書から読み取れるのは、こうした自由と幸せをめぐるパラドックスなのである。
ところで、女子大の同窓会では(日本女子大か?)、結婚相談の一貫として、同窓生によるお見合いパーティーが開催されているらしい。ここに参加できる男性会員は、同窓生による紹介が必要なのだとか。何とかしてツテが見つからないものだろうか。