80年代をめぐる考察――岡崎京子『東京ガールズブラボー』

seiwa2005-05-16

岡崎京子東京ガールズブラボー』(1993)。東京に恋焦がれる北海道の女子高生、金田サカエちゃんが、両親の離婚をきっかけにとうとう東京にやってくる。まあストーリーとかはどうでもいいのだけれど、1980年代という時代の空気感が沁み入るように伝わってくるマンガであることはたしか。たとえば江國香織ならば、「世の中でいちばんかなしい景色は、雨に濡れた東京タワーだ」と書くところ、おなじ東京タワーを仰ぎ見て、サカエちゃんはこうつぶやくのだ。まずは厳しいおばあちゃんの家から、家出を決意する場面。

ああ東京タワーに灯がともるよ/きれいだなぁ/カッコイイよなぁ/ふしぎふしぎ東京タワーって/いつか東京タワーを“東京サカエタワー”と呼ばせる日までガンバルぞ/可愛いいあたしの東京タワー/その日まできれいにかがやいていてね/不安とキタイでわくわくしちゃう(上巻98−99)

あるいは、ストーカー女の同級生に恋敵と勘違いされ、嫌がらせにうんざりする場面では、

「東京タワーが見たいな」東京タワーあたしの聖地/333mのてっぺんにのぼって/うたうたいながらくもをみたいな/しかし何でこうなっちゃうんだろう?誰がこんなにあたしを嫌いなんだろう(下巻4−5)

ほかにも東京タワーの出てくる場面はあるのだが、サカエちゃんの感情は、たぶん次のセリフに一番良く表われているだろう。

強くなりたいなあ/強く強く強く/日常ってなんてサマツなことばかりなんでしょう?/でもあたしは負けないぞ/だってあたしは知ってるもん/(よくわかんないけど)もっと、ちがう何か、空の高みにも似た何かがあることを(下巻40−41)

そういや、岡崎京子のマンガ全般にいえることだが、このマンガでも、空が出てくる場面がとても多い。そして、それらはそれぞれに印象的だ。きっと懐かしい雰囲気がするのだろう。たぶんその懐かしい感じというのは、80年代の時代が醸し出す感じなのだと思う。
たとえば、サカエちゃんが、東京に来てはじめてステキな親友に出会った場面。

こーゆうしゅんかんて好き/ぜんぜん知らなかった人間がさ/なんとなく遇っちゃってさ/まだぜんぜん知んないけどすごく/気が合いそうな予感がするしゅんかん/恋の予感ってのじゃなくてさ/なんかでも似てるかも/なんかさ/あたしたちって/ずっと仲良くしていれそう/なんかそんなかんじする時あるじゃん/すっげー/たいした事のない事で/すっげーシャーワセになる時/それがいまだな/少なくとも/あたしには(上巻30−31)

もちろん、テレビの歌番組とかで1980年代の流行歌が流れると、本当に目を覆いたくなるほどの恥かしさがある。YMOとかも、みんな刈り上げだし、やたらピカピカした服を着てたりするし。でも、あの恥かしさの中にあった微妙な感覚というのは、結構振り返ってみるべきものがあるんじゃないだろうか。私がもし80年代に青春時代を迎えていたとしたら、反時代的身ぶりを装いつつ、かんぺきなオタクになっていたと思うが(←つまり結局、時代性からは逃れられない)、そういいつつも、あそこに存在した感覚というのは、現代よりははるかにマシなものがあったんじゃないかとも思うのである。結論を言っちゃうと、「自意識」が存在していたのではないかと思うのである。
巻末では、岡崎京子浅田彰が対談しているのであるが、そこで岡崎と浅田は次のように語っている。

浅田:……結局、あの頃は全般的に70年代後半の「パンクの暗い絶望」みたいなささくれだった感覚がベースにあって、それを知った上で、もはや絶望することさえないって感じで、次々にいろいろはなやかなパターンでニュー・ウェイブとか何とかやってたんだと思う。だから後になってあの時代が総括される時に「消費社会の表層に浮遊する記号を自由に楽しむ」という明るい部分だけでくくられてしまうと、それはやっぱり違うよね。
岡崎:……そこではたいてい「結局80年代はなんにもなかったんだ」とか「バブルといっしょにはじけて消えた、うわっついた時代だった」とかいわれてるわけでしょ。それもまぁ、わかるにはわかるんだけど、でもやっぱりそんなふうに総括されてしまうと、こっちとしては「いや、そんなことはないッ!」って、いいたくなる。(下巻172)

浅田は、「みんな『根拠レス』で突っ走ってたね」(171)、「あの頃は『常に新しい動きが出てくる反面、一年たったらそれは消えてる』っていう感じだったでしょ。いわば文化の最終消費に向かって暴走する興奮」(174)「新しいものが次々に終わっていくことへの切ない感覚と背中合わせになった、無根拠な興奮」(174)、と80年代を回顧している。
つまり、金田サカエちゃんが「もっと、ちがう何か、空の高みにも似た何か」を追い求めるときには、おそらくどこかで、「もはや絶望することさえない」という感覚がしっかりとあって、その空虚さや切なさが感じとられていたのではないだろうか。だから、「たいした事のない事で/すっげーシャーワセになる時」、「こーゆうしゅんかんて好き」という瞬間を求め、せめて「少なくとも/あたしには」「それがいまだな」というリアルさを得ようと、「暴走」するのである。それはたぶんニセモノの欲望なのだと分かったうえで、サカエちゃんは「文化の最終消費に向か」うことでしか得られない「興奮」を手にしようとするのだ。
冷静に考えてみると、東京タワーが「カッコイイ」というのは、いまでは相当にカッコ悪い感じ方である。おそらく80年代のそういうカッコ悪さというのは、瞬間のなかでだけ、ほのかに垣間見られるのかもしれない、「空の高みにも似た何か」を、集団的な興奮状態において追求したところに生まれたものだろう。何にせよ、興奮状態を後になって冷静に振り返ると、カッコ悪いものである。
しかし、だ。希望と断念がないまぜになりながらも、なにかが希求されていたというのは、かなり濃密なことではなかっただろうか。そこには、なにかを希求する主体があり、なにかを断念する主体が存在し、主体が追い求める世界観がある。
21世紀日本では、世界観が存在しうるなどとはもはや信じられていない。すべての欲望はフラットに並列するのみで、世界を希求することのかわりに、内閉した自分語りだけがはてしなく膨れ上がっていくのが現実だ。80年代を簡単に笑うことは、たぶんできない。「世の中でいちばんかなしい景色は、雨に濡れた東京タワーだ」と、「東京タワーに灯がともるよ/きれいだなぁ/カッコイイよなぁ/ふしぎふしぎ東京タワーって」。どちらがどうとはいえないけれど、雨に濡れた東京タワーに悲しい自分を感じてしまう自己愛のあり方だって、けっこう恥ずかしいと思う。
どうでしょう?