マイルス、コカイン、折口先生

昨日読んだ本で気になったところ。

……一九七七年の一年間、マイルスがスタジオに入ったとする記録は一切残されていない。それもそのはずで、この時期マイルスは自宅に閉じこもり、コカインとアルコールと睡眠薬を飲みつづけ、ほとんど廃人と化していた。/ただし、マイルスが特異だったのは、そうした状態にありながら、さして精神的な支障をきたすことなく、堕落していく自分を客観的に見つめていたことだろう。これは、かつてヘロインやコカインでジャンキーとなり、それを断ち切ったときのエピソードを思わせるが、こうした客観性、強靭な意志こそマイルスならではの特質といえる。(153)

コカインってのは、強靭な意志があれば大丈夫なのか?素朴な疑問。
コカインで、この人のことを思い出した。石田英一郎岡崎次郎の本にも出てくる)が、「折口先生もそういった原始形態への遡及について、方法論的にやはりいろいろお考えになってきたことと思うのでございますが、、何か少し……」と質問したのに対して、先生はこうお答えになった。

私のは非常に悪い方法で、先生にしばしば叱られたわけですが――こんな話は、学問にはなりません。単に愚人の懺悔たるにすぎません――論文をせめられて仕方のないときには、濫書狂みたいになって書いたのを渡しました。民俗学に関する情熱の盛んな時代には、コカインがあれば書くというようなことで、書くときには四十八時間くらいつづけて書いた。その後興奮がばたりと絶える。そのあいだに無茶苦茶に書いた。そうした書き物のうち、理屈にかなっていると思うようなものを出しました。そうでない捨てたものがたくさんあります。だから滅茶苦茶な方向から偶然筋の通ったものだけを出したわけなんですが、しかし中には、筋の通っていないものがたくさんあります。書くときの方法は悪いと思いますが、書いた方法がかなっていて、結論がそんなに間違っていないというようなものも、少々はあったわけなんですが、なんせそんなことをしていたため、そのあいだ身体を動かすのがいやで、いちいち引用書を調べに立つことができませんし、頭に覚えているだけ限りの知識によったのです。勢い、思い違いや、入れかわりなどがあるが、まあいくらでも出てくる。潜在しているものが出てくる。そんなことで書いているということは、神がかりみたいなもので、恥ずかしいわけですが、それをいくらか、後で選択したというわけなのです。そういう習慣がなくなって書けなくなりました。(310)

てか、柳田がこの「創造的な直観力」について、「ましてこれは東洋人の一つの長所なのだ。それを失ってしまってしまうようだったら、ほとんと民族としての存続も怪しい」とか、「折口君は直感が早過ぎるが、私はそれを東洋人の長所だと思う。これをほったらかしたり、かたづけたりしないほうがいい」とか述べているのも、ちょっと面白い。