現代絵画がもつ視線

さて、懸案のゴッホ展に行こうと試みたのだが、ふたたび信じられないほどの人だかりのために断念、常設展だけをみて帰った。戦前、戦中、戦後日本の現代絵画が中心の展示で、まえに見たものも多かったが、やはりなかなか面白い。国吉康雄(1889−1953)、佐伯祐三(1898−1928)、藤田嗣治(1886−1969)などなど。あとは岸田劉生とか岡本太郎とか棟方志行とか。大正期、昭和初期のものだと、プロレタリアっぽいのとか、モダニズムっぽい作風が多い。
この時期の現代画家たちの絵を見ていて思うのは、海外修行をしている画家がほとんどなせいもあって、日本的なものが日本的でない技法によって描かれることの不思議さが伝わってくる、ということだ。物を見る見方についての可能性が、いったん海外の絵画技法を経由することにより、画家の内部で無限に拡がっていくように感じられたのではないか、と想像してしまう。たとえば、岸田劉生なんかだと有名な切り通しの絵があるが、あれも日本の事物を日本風でないやり方で描いていることの新鮮さ、新しい観察の可能性を感じさせるように思う。自分をメタな立場から意識するための視点をはじめて獲得した(近代的自己意識の誕生?)、とも言えるかもしれない。
あと常設展では、横山操(1920-1973)、中村正義(1924-1977)という人たちの特設展示もやっていた。とくに中村正義の源平合戦シリーズはかなり面白く、楽しめた。平家の武者たちの遺骸が、壇ノ浦の海流のなかに、映画のようなリアルさで飲み込まれていく。生と死のはざまにある世界、そして死後の世界、そこからは無常観までもが匂い立ってくるのだけれど、不思議に笑えてきたりもする。となりで、講談師に平家物語をやってもらうと、なお良いだろうと思った。