ヘーゲル『法の哲学』

土曜の午前11時から放送されている『談志・陳平の言いたい放題』(東京MXテレビ)を、私はかならず見る。今日は「談志ング・ファイブ」の日だった。立川談志師匠、野末陳平にくわえて、特別ゲストの毒蝮三太夫吉村作治西部邁らが、あれこれとしゃべりまくる。たしかにくだらないのだが、こういう類いのくだらなさは、この番組でしか味わうことができない。
ところで、今日は公務員というのはトクか損かという話で、やれ仕事もしていないのに給料をもらいすぎだ、とか、まあ全体を通してみるとそれなりなんじゃないの、とか、あいかわらず結論の出ない話がひとしきりつづいていたのだが、談志師匠は「でも、現実がそうなってるッてことは、ツマリそれが事実だってことで、結局それが一番イイってことじゃないンですか」と述べ、それは毎度のことながら、やはり本質をついた発言なのだった。それで西部邁が、「偉大な哲学者のヘーゲルも談志師匠と同じことを言ってるんですよ」と云っていて、私はそこに反応してしまい、ヘーゲルの『法の哲学Ⅱ』(中公クラシックス)をめくりなおしたのだった。
まず、西部の云っていたことが、直接に理解できる部分を引用しておこう。

真の現実性は必然性である。すなわち現実的であるものはそれ自身のうちにおいて必然的なのである。必然性の本質は、全体が概念上のもろもろの区別項に区分されているということ、そしてこの区分されたものが一つの堅固で長持ちする規定性となり、そうなりながらもこの規定性が死んだように硬直したものではなくて、解消することにおいて絶えずおのれを産み出してゆくということにある。(【追加】の項)(271)

『法の哲学』の議論構成は、まず「法」や「道徳」などの概念規定がなされたあとで、家族形態について論じられ、家族の止揚形態としての市民社会、さらに市民社会における私的欲望を止揚する国家形態、がそれぞれ論じられる。したがって、上記引用で「真の現実」と呼ばれているものも、やはり国家に関してのことであって、この引用に続いて、「完全に出来上がった国家には、本質的に意識、思惟が属している。だからこうした国家は、おのれが何を意思しているかを知っており、しかもそれを思惟されたものとして知っている」といった文言が接続するのである(271)。
で、「Ⅱ」の前半部分を中心に読んだところ、以前に言及した小浜逸郎の「大人の自由」「子どもの自由」について、その元ネタがヘーゲルであると確認することができた。

拘束する義務が制限として現われうるのは、ただ無規定の主観性、すなわち抽象的な自由に対してだけであり、また自然的意志の衝動、あるいはおのれの無規定の善をおのれの恣意で規定する道徳的意志の衝動に対してだけでである。/ところが個人は義務においてむしろおのれの解放を手に入れるのである。……義務においてこそ個人は解放されて、実体的自由を得るのである。(16−17)

ヘーゲルはこのようなかたちで「倫理」に関する基本的発想を示している。そしてこれをふまえ、「家族」についても、「婚姻」や「教育」などの観点から議論を進めている。それぞれにかなり面白い内容なので、以下で少し紹介しておこう。
まず婚姻について。ヘーゲルは、男性と女性の本質的な違いについて、「男性は対外関係においてたくましく活躍するもの、女性は受動的で主観的なもの」などと述べる(53)。こういうのは、西部先生は大喜びだろうが、フェミニストだと大激怒だろう。

女性はもちろん教養をもちうるが、普遍的な能力を必要とする高度の学である哲学や、或る種の芸術創造に適するようには出来ていない。女性は思いつき、趣味、優雅な声質をもつことはありうるが、理想的なものはもたない。……もし女性が政治の頂点に立つとすれば、国家は危険におちいる。女性は普遍性の要求するところに従って行動するのではなく、偶然的な愛着や意見に従って行動するからである。(54−55)

まあ、アブナイけれど、実感的にはあたっていると思う部分は多い。もちろん、おかしな「理想」をいだかないからこそ手にできる強さも女性は持っているわけで、どちらが優れているといったことではないけれど。なお、ちょこっと思い出したので、宮台先生の発言も引用しておこう*1

ボクは最近の三島由紀夫論で「内在系」(現世利益追求的)と「超越系」(自己意味追求的)の違いを書いた。家族と一緒に生きられる幸せ。ご飯も食べられて仕事もそれなりにこなせる幸せ。そういう幸せがあれば幸せに生きられる「内在系」の人がいる。/ところが、まったく同じ条件を持っていても、それだけでは幸せになれないヤツもいるわけ。それを「超越系」という。ボクは「超越系」なんだ。/「内在系」か「超越系」かは、習性は習性だけど、配合バランスの問題で、バランスが取れればいいわけ。でもね、実際、男には「超越系」が多く、女には「内在系」が多い。「超越系」の人が求めるものは、ある種の「恍惚感」だったり「眩暈感」だったりして、「日常的にきちんと暮らす」ということを犠牲にしやすい。(速水由紀子『ワン婚』44)

これももしかするとヘーゲルのパクリなんじゃないか、と思うくらい同じ議論である。ヘーゲル先生は、次のようにも述べる。

男性と女性のちがいは動物と植物のちがいである。動物はむしろ男性の性格に相応し、植物はむしろ女性の性格に相応する。というのは女性はどちらかといえば、かなり無規定の感情的合一を原理としてもちつづける静かな展開であるからである。(54)

ここで「感情的合一」という概念は、「内在系」と明らかに重なっている。いずれにせよヘーゲルは、男性と女性は異なっている、また異なったものであるからこそ、家族というかたちでの止揚形態が意味をもつのだ、ということを力説する。ほかにも、婚姻以前になれなれしくしたり一緒に行動したりするのは良くないとか(58参照)、ロマンティックラブはいかがなものかとか、見合い婚の方が望ましいとか、いろいろとおっしゃっており、ともかくもそれらはすべて、婚姻の本質が、あらかじめ異なったものが同一性へと向かっていくことにある、という洞察に基づいた意見なのである。そしてそのようにして形成される婚姻が家族の基底におかれ、そうして出来上がる家族が、市民社会の基底となっていくのである。弁証法
さて次は、教育について。すでに確認したように、ヘーゲルは、現実を受容しそこに義務を見出すことによって、「個人は解放されて、実体的自由を得る」と考えていた。したがって、教育についても、「まだ自然的本性にとらわれている自由を懲らしめ、普遍的なものを子供の意識と意志のなかへ起させること」が重要な課題にすえられることになる(65−66)。

人間はあるべき姿を、本能的にそなえているのではなく、努力によってはじめてそれをかちとることができる。教育されるという子供の権利はこのことに基づいている。……おとなになりたいというあこがれを起させるところの従属感が子供に養われないならば、生意気とこましゃくれが芽を出してくるのである。【追加】(66−67)

人間の本性の発達こそが教育学の使命だ、となどと云うところは、カント以来の近代教育パラダイムの内部にあることをうかがわせるものである*2。またヘーゲルは、「子供の教育には二つの使命がある」として、またまた宮台先生と同じようなことも述べている(というか、宮台がヘーゲルと同じようなことを云っているのだろうが)。

一つは、家族関係からみての積極的使命、すなわち倫理性を直接的でまだ対立を含まない感情というかたちで子供のなかに作りあげ、子供の心情が、この感情を倫理的生活の根拠として、愛情と信頼と従順のうちにその最初の心情的生活を送ってしまうようにするという使命である。/もう一つは、同じく家族関係からみての否定的使命、すなわち子供を、その生来の状態である自然的直接性から抜け出させて、独立性と自由な人格性へと高め、こうして子供に家族の自然的一体性から出てゆく能力を獲得させるという使命である(67)

宮台先生風に云うと、幼児期の情緒的一体性(=基本的信頼)が重要だ、そのうえで家庭がトライアル・アンド・エラーのためのベースキャンプ機能を果せるようにすべきだ、ということになる。もちろん、このような類似は、なにも宮台がヘーゲルをパクったということではなくて、エリクソンの「基本的信頼」の概念に依拠したら自然にこうなるということなのだろう。むしろ、そのまんまパクっているのは小浜逸郎の方である。無論、小浜はさすがに目の付け所が良い、という以上のことではないが。
さて最後に、「家族→市民社会→国家」のダイナミックな弁証法プロセスが垣間見える部分について、ついでだから引用しておこう。

市民社会においては、各人が自己にとって目的であり、その他いっさいのものは彼にとって無である。しかし各人は、他の人々と関連することなくしては、おのれの諸目的の全範囲を達成することはできない。だからこれらの他人は、特殊者の目的のための手段である。ところが特殊的目的は、他の人々との関連を通じておのれに普遍性の形式を与えるのであり、自分の福祉と同時に他人の福祉をいっしょに満足させることによっておのれを満足させるのである。(89)

どうです?ダイナミックでしょう?ヘーゲルはなかなか面白いと分かりました。
ほんとは、このあと、大内裕和『教育基本法改正論批判』(現代書館)の評価とダメだしを続ける予定だったのだが、やめとく。短くコメントしておくと、臨教審以来の教育について、そこで公共的な論点の大転換が生じたというところまでは理解できるが、やはり「新自由主義」と「国家主義」が迫りきているといった現状認識に関しては、唖然とせざるをえない。ヘーゲルが、そして立川談志が、「真の現実性は必然性である」といったことの意味をもうちょっと考えないとだめだろう。大内は、現実に適応させるべく考えられた教育改革案について、それらがすべて「新自由主義」であるかのように批判する。しかし、多様な産業上のニーズに合わせて、教育内容も多元的に試みられるべきなのはあたりまえだろう。大内は、戦後教育の思考圏内に非常に強く拘束されるあまり、現実をどのように教育に反映させていくのか、という課題にまったく答えられないような議論をするばかりである。

*1:この速水由紀子の本は、あらゆる意味でイタイ。なぜ速水を捨てて宮台が「ゆみたん」の下へと走ったかがわかる。新婚騒動をめぐるインタビューで宮台先生は、「彼女は信頼ベースなんですよ。何とかなるっていうのが彼女の基本的スタンスなんですよ」と妻を評しておられたが、え?、速水は「不安ベース」なの?ってことで、実際この本を読むとそれが事実だとわかるのだ。第一、男のパターンを犬種ごとの性格に当てはめて論じるという本の企画自体が、イタイでしょ。とくに宮台との対談とかは、離婚調停みたいになってるから。弁護士呼んで〜って感じ。

*2:ヘーゲルは、ルソーを批判して、「人間を世間のおきてに背かせるようなことはうまくゆくはずがない」と述べている(28)。また、ドイツ啓蒙期の教育改革家J・B・バゼドー(1723〜90)による「遊戯による教育法」についても、「子供っぽさを、もうそれだけでなにかそれ自体において価値あるものと考え、そういうものとして子供に示し、……自分がまだ出来上がっていないと感じている子供をむしろ出来上がった人間だと考えようと努め、そしてその子供を出来上がっていないことに満足させようと努める」と批判する(68)。また、ルソー『エミール』とラ・シャロッテ(1701〜85)『国民教育論』(1763)のような「自由教育」と「国家による教育」の対立については、「国家による教育」(=公教育)を支持する見解を提出し、戦後の左翼教育とまったく反対の立場をとった(192−193)。あと、どこだったかで、コンドルセらのフランス革命期の公教育論にものすごくコミットしている。なかなかにヘーゲルの立場は複雑だといえよう。