『国語のできる子どもを育てる』

工藤順一1999『国語のできる子どもを育てる』(講談社現代新書)。作文教育の方法についての本書の提言は、傾聴に値する。「自由に思ったことを書く」とか、「日記を書く」とかいう作文指導の方法は、きわめて問題である。それは子どもの内部に、書くことの内発的動機が存在することを想定する指導法だからである。だが、見たままを書く、思ったままを書く、といったところで、そこに観察する「主体」の意識が必要なことはいうまでもない。とするならば、そうした主体的意識が育っていない子どもの場合、「見たままを書く」「思ったままを書く」ということが、苦痛をともなう労苦でしかない可能性が浮上するだろう。しかし、この問題について、国語教育は長らく鈍感でありつづけてきた。私見では、その理由は、戦後教育が「子どもの主体性」を前提とする神話を信憑してきたことに関係している。
以上をふまえ、本書の著者が提案するのは、四コママンガを用いて150字程度の客観描写をさせるという手法である。なんの留保もなしに支持したい方法である。
また著者は、読解教育についても、武田忠の議論をふまえつつ、次のように批判する。「教科書の文章をただ教える、つまりそこに外在的に真実があるということをただ確認する――確認させるだけの授業が、いかに自ら考える力を失わせているか」(76)。
たしかにそのとおりだと思う。薄っぺらい教科書をだらだらと精読させる国語の授業なんて、基本的に退屈なはずだ、との認識はもっと共有されてよい。だが、それにしてもなぜ、国語教育は「精読」をスタンダードとするのだろうか。以下、私見を述べる。
おそらくここには、文章を読むということに関する根本的誤解が関係しているのだろう。というのも、「精読によってテクストが理解される」という態度は、テクストを「情報=information」として考える態度にほかならないからである。ここには、自分の主体的な関心の対象として、テクストがあらわれるという側面がまるで無視されてしまっている。換言すれば、自分にとって関心のある情報のみが「知=intelligence」として立ち現われる、という大原則が忘却されているのである。
もちろん「精読」によって、生徒の個別的関心が惹起されることもあるだろう。だが、そのような迂遠な「賭け」をしなくとも、大量の文章を読ませるなかで個々人の関心を広くカバーしていく方が、圧倒的に効率的なのは言うまでもない。あえて「精読」をやることの意味は、かならずしも自明なものではないのである。
すなわち、「精読」の背後にある教育的思考は、教科書の文章を正確に理解することが(=「情報」を正確に受けとることが)自動的に生徒の関心を導く、との神話的思考にほかならない。それは、「作者の言いたいこと」を深く理解すれば、かならず生徒はそこに関心を抱きうるという思考を前提とするものなのである。しかしそうした考えは、生徒の関心の多様性について、適切に配慮したものとはいいがたいだろう。さらに言えば、そこには、教育的営為が、生徒の関心のあり方に直接的に影響をあたえうるのだ、という傲慢な想定が存在している。
自分の意見を言い過ぎたので、本書の内容に戻る。
以上で見たように、良い提言もあるのだが、著者の問題関心のあり方には大きな疑問も残った。著者は、入試問題が断片的なものでしかなく、子どもの思考力を奪うものでしかないと論じる。さらに、考える力の重要性を強調するあまり、考えない人間を一段低く見るような文章も散見される。しかし、これらのことは完全に誤りであろう。実際のところ、入試問題を高いレベルで解ける人間の方が、思考力も持っているのは明白な事実である。また、たしかに思考力というのは大切だが、考えないで行動する人間もいないと、世の中のバランスが取れない。さらに最後の方の読書案内も、恥ずかしいのでやめておいた方がよかったと思う。「こういう本を読むと思考力が身につく」といったマニュアル思考は、あまりに幼稚な考え方だと思う。そういうナイーブさが気になった。