マーラーによるとめどない妄想

バルビローリ指揮・ベルリンフィルハーモニー管弦楽団マーラー交響曲第9番(1909)』(1964年)を聴きながら、妄想に耽る。
もし宇宙空間に孤絶しつつ漂流する、自己意識のようなものがあったとしたらどうだろう?この自己意識は、自身が意識であることの特権性について主張するだろうか?この自己意識は、宇宙をただ漂うばかりなので、主体的に世界に関与することはありえない。また身体を持つことがないので、死という存在の終結を見定めることもない。もちろん、先験的カテゴリーとしての時間・空間認識能力は保持するものと認めてもよい。だが、そうだとして、この完全なる孤独を生きる自己意識は、はたして世界をよく認識しうるだろうか?
問いを進めてみよう。そもそも人間というのは、世界に主体的に関与しうるものなのだろうか?ここで主体的とはいかなる意味であるのだろうか?自己とは、自己と環境を区別することにより、はじめて生成される概念である。しかしこの区別は、あらかじめ決定されたかたちで実行されるようなものでは決してない。自己と環境を区別しうるのは自己のみである。であるならば、そのような区別をなしうる自己の先験的特権性は、それでも維持されうると言えるのか?
たとえば、人間は絶食すれば簡単に死んでしまう。身体は日々食物を分解する。身体は、蛋白質などの構成要素を組み換え、更新することによりはじめて存立しうる。だがこのとき、食物は自己にとっての環境だと見なして良いのだろうか?食物と身体の相互循環的な様相は、ある水準において、環境内部における自律的運動として観察されるのではないか?
かりに、そうだと仮定してみよう。このとき自己意識は、やはり宇宙空間を漂流する孤絶した点にほかならない。それは、主体性概念を生成するための特権的区別を懐疑する。さらに環境をひとつの流れ、自律的運動として捉えるため、死を意識することもありえない。もはやそこでは、先験的カテゴリーが維持されるのかすらも定かではないだろう。また環境が自律的運動とともにあるならば、すべてはすでに機械論的決定に支配されているともいえる。つまり、死の意味も生の意味も、そこには何もないのだということだ。
マーラーの旋律が誘うのは、そのような不思議な感興である。死を恐怖しつづけたマーラーは、その作品において、徹底的に死を突き詰めた。だが、それは彼に救済をもたらしたのだろうか?もちろん、この問いに容易な解答はありえない。とはいえ、もし「そこには何もないのだ」としたら、それが救済のイメージを伴うものであっていけない理由はない。そうした捩じれた「救済」の概念こそが、マーラーの音楽の本質部分に位置しているように思われる。