斎藤環『若者のすべて』

斎藤環若者のすべて ひきこもり系VSじぶん探し系』(PHP)を入手したので、前の日曜日に読んでみた。この本はたしか4年ほど前、shou君の家の本棚にも並んでいたように記憶する。私はそこで一度読ませてもらったはずだ。そういうわけで書いてある内容については既知であったのだが、再読してみて、彼の「ひきこもり系」「じぶん探し系」という対立軸はやはり興味深いものだと感じた。実感とも矛盾していない。
この本のもっとも簡単な要約は、「渋谷群は過度にコミュニカティブで自己像が曖昧、原宿群は自己イメージは安定しているが対人的には淡白」(60)というものである。この分類にしたがえば、たとえば村上龍は「じぶん探し系」、村上春樹は「ひきこもり系」ということになる。斎藤によれば、村上龍は、他者との交流能力が高く、同一化ないし転移の能力にすぐれている。一方、村上春樹は「他者との交流能力や状況全体の理解力・整理力」(64)において遅れをとっていて、「自己自身が最初に出会う他者であり、したがってみずからを魅了するのは彼自身の内的過程にはかならない」(63)ということになる。実際、村上龍が女子高生にインタビューをおこなうと、彼は女子高生と同じ言葉遣いになるのに対して、村上春樹の『アンダーグラウンド』の場合、「インタビューイの誰もがまるで、村上春樹の小説の登場人物のように話す」(64)。この指摘はかなり鋭いと思った。
斎藤はさらにパラフレーズして、次のようにも述べている。

じぶん探し系とひきこもり系の最大の違いは、自己イメージの透明性である。それが透明で操作演出が可能なものであるほど、自己イメージは不安定でリアリティを欠いたものとみなされるだろう。したがってじぶん探し系の表現者は、転移や同一化の能力をフル稼働して、みずからにとって不透明で咀嚼しにくい特権的な他者に自己イメージを依託する。彼らはしばしば解釈や引用の能力にすぐれており、時代や状況を的確に反映した作品を「症状」として生産できる。それを「症状」とよぶ理由は、彼らがみずからの作品を愛してやまないことによる。(68)

いっぽうひきこもり系の表現者は、不透明な自己というリアリティを確保している。彼らにとって、自己とは最初から他者なのだ。したがって自己の内的過程に没頭し、そこに生起するもろもろを表現の素材として利用することが出来る。その結果、作品はきわめてオリジナルで特異なものとなるが、それが一定の限界を越えて受容されることは多くない。……彼らの自己愛は、自己の不透明性にむけられており、これが内的没頭を可能にしている。作品は一種の排泄物であり、はがれ落ちた「かさぶた」のようなものだ。彼らは意外なほど自らの作品を愛そうとしない。(69)

もちろん斎藤氏自身が断っているとおり、これは必ずしも排他的な人格類型ではないし、現実の人格はそれらがある程度入り混じったものとなるだろう。しかし、村上龍村上春樹との対照例がそうであるように、これが相当使い勝手のよい対立図式であることは間違いない。さすがに、患者に意味を供給する仕事の精神科医である。とくに、「不透明な自己」ゆえに「自己イメージが安定」し(=ひきこもり系)、あるいは「透明な自己」ゆえに「自己像が曖昧」になる(=じぶん探し系)というのは、興味深い逆説であると思う。
さて、このような例を当てはめると、たとえばドゥルーズは「じぶん探し系」でガタリは「ひきこもり系」、浅田彰は「じぶん探し系」で柄谷行人は「ひきこもり系」、などと分かってきたりする。斎藤氏が挙げている例でいえば、ダウンタウン松本は「ひきこもり系」で、ネプチューンは「じぶん探し系」である。さらに私の場合は、完全な「ひきこもり系」で、自己愛が自己の不透明性に向けられ、内的没頭がいちじるしく得意である。また当ブログの主要登場人物も精神分析しておくと、hiroumix君はかんぺきな「じぶん探し系」で、きわめて「引用や解釈の能力にすぐれている」が、自己のリアリティがあまりに希薄かつ曖昧な人間。shou君はかなり微妙であるものの、「じぶん探し系」を装おうとしているじつは「ひきこもり系」、ということになる。反論は自由。