アドルノの補足

『プリズメン』の「文化批判と社会」を読んでみると、二日前のコメント欄の整理があまり良くないと分かったので、修正しておきたい。まずは原文を確認。

文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を語りだす認識を侵食する。(36)

現代においてもはや素朴な文化批判は無効なのだ、というのがアドルノの問題意識である。素朴な文化批判というのは、批判対象が内属する社会の権力性から、自身のみは超越的でありうると想定するタイプの言論のことである。しかし、じつはそうした言論も、すでに現代社会の産業的流通のなかに取り込まれてしまっている。もはや社会の高みに立ちうる言論は、素朴には存在しないのである。
その意味で、逆に批判されるべき対象にとっては、社会の高みから紡がれる高踏的批判など、もはや何の痛痒でもないことになる。産業はますます自律的運動を加速させてゆき、「精神」は「絶対的物象化」のなかへと否応なく呑み込まれてしまっている。「精神」が文化産業を批判したところで、それは外在的なものにとどまり、どのような実効性も持たないのである。
だとすれば、文化批判がなおも批判的意義を維持するためには、特別な戦略性が必要となる。もはや思想は、「啓蒙」という名の下にあぐらをかいてはいられない。思想は、物象化という機制に徹底的に内在しつつ、物象化に抗っていくための立脚点を模索しなければならないのだ。
アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」という文章も、そういうモチーフのもとに理解できる。ロマン主義的言説に酔いしれた啓蒙理性は、結果としてナチズムを招来した。むしろ、ナチズムという現実は高踏的な啓蒙的言説を利用しながら、みずからの権力性を増大させていったのである。ところが啓蒙理性は、自身が置かれている社会的文脈について無頓着であったため「野蛮」を引き寄せ、また「文化産業」という「絶対的物象化」の内部で振る舞う意味について熟慮しなかったために、利敵行為に加担することになった。それゆえ、「啓蒙的」であることが無条件に「善」を意味するとのナイーブさは、今日乗り越えられなくてはならないのである。
なおアドルノは、「今日詩を書くことが不可能になった理由を語りだす認識」すらもいまや高踏的にすぎない、と文言を続けている。「アウシュヴィッツ以降……」と口にした瞬間、その言説は文化産業の内部に取り込まれ、無害なものへと馴致されてしまう。アドルノが主張するのは、思想はどこまでも自身の立脚点について懐疑的でなければならない、ということだ。
ちなみに、彼の文章が異様に難解なのも、そういうところに原因が求められるだろう。とはいえ、高踏的であることを避けるための知性のあり方が高踏的でしかありえない、というのは矛盾のようにも感じてしまう。アドルノの立論においては、「啓蒙理性」と「啓蒙理性の素朴さを監視するメタ啓蒙理性」という二重性が設定されていると思うが、それはある意味で不毛な無限後退を導きはしないだろうか?