第二共和制期までのフランス教育事情

土曜日は、明日が日曜日なわけだし、気持ちの余裕がある。自分の関心に忠実に、まとまった読書ができて幸せだ。今日は、『パサージュ論第1巻』を斜め読みしたり、山田昌弘『パラサイト社会のゆくえ』、『東大教師が新入生にすすめる本』(文春新書)、井上章一『関西人の正体』(小学館文庫)を読んだりした。あと以下に挙げる本も読んだのだけれど、以下はメモだから読まなくて良いよ。ま、読まないだろうけど、念の為。
最近は同時並行的に様々なテーマを追っているのだけれど、その一つに教育史の各国事情というのがあり、谷川稔『十字架と三色旗』を読む。大革命以降の、教育をめぐるカトリックと世俗派との対抗関係を、習俗の水準で歴史的に叙述している。
大革命以前、17世紀後半から18世紀にかけてのフランス社会は、カトリック教会の教区組織が全国に張りめぐらされていて、各教区ごとに「小さな学校」が置かれ、そこでは民衆向け教育として、初歩的な読み書き計算の他に、お祈りや聖歌、教理問答、聖人伝などの宗教教育が行なわれていた。これは良きカトリック信者となるべき心得の習得を目指したものであり、12歳頃に行なわれる初聖体拝領のための準備教育という側面があった。このような小教区単位での民衆強化は、16世紀のトリエント公会議以降に進められたものである。ヴァチカンからは相対的に自律し、国家の教会という性格のつよいこうした制度は、ガリガニスム(フランス国教主義)と呼ばれる。
だがこうしたガリガニスムは、大革命に直面すると同時に、より徹底して世俗的な形態へと解体されていくことになった。そうした動きを法律面を中心に追跡すると次のようになる。

1789年7月、バスチーユ攻略、8月封建制廃止決議、11月教会財産国有化
1790年2月、修道誓願廃止・修道院統廃合、7月聖職者民事基本法、11月聖職者に基本法への宣誓を義務化(拒否僧解任)
1791年4月、宣誓僧による立憲教会体制成立
1792年9月、九月虐殺、戸籍の世俗化(←これまでは教区で管理されていた)、離婚法
1793年1月、ルイ16世の処刑、5月ブエキ案に沿った初等学校法成立、10月非キリスト教化運動激化(〜94年春)、11月聖職放棄の強要と妻帯強制の開始、理性の祭典、共和暦採用
1794年6月、最高存在の祭典、7月テルミドールの反動
1795年10月、公教育組織法(ドヌー法)成立

教会財産の国有化あたりまでは不思議なことだがカトリック側も大革命に協力的な姿勢を見せていたのだが、その後の対立は混迷を深まる一方だった。しかし戸籍の世俗化や離婚法などの具体的施策によって聖職者たちの従来の公的存在意義は急速に失われてゆき、また妻帯強制などを通じてカトリックの教会法の掘り崩しが進められたことなどによって、聖職者集団は実質的に解体されていくことになる。一連の出来事は、民衆の側から言えば、カトリックによって与えられた信念体系に不信の念を抱かせ、市民としての再生を促すものだった。
一方、1793年からは非キリスト教化運動が盛り上がり、教会施設の物理的破壊、および「理性の祭典」などが実施され、カトリックの聖具が「迷信の玩具」として火刑に処せられ、聖なる理性にもとづく共和制原理が熱狂的に称揚される、といった出来事が生じた。同時に、市民的空間・時間の創出として、地名変更が試みられたり、数学的合理性を持った共和暦の導入が図られた。もっとも共和暦は、農作業に従事する民衆の身体リズムにはそぐわず、容易に浸透することはなかった。
なかでも大きな課題は教育だった。1792年8月までには教会施設での公教育はいっさい禁止され、教育修道会の活動も停止していたことから、共和派はキリスト教的規範の代替となりうる共和主義的公民教育のシステムの確立を図らねばならなかった。そこでタレイランコンドルセを筆頭に、数多の教育改革プランが提出され、これは議会の公教育委員会を中心に熱心に議論された。なお、そこで見られた改革案は、ディドロや百科全書派の流れをくむ自由主義的な知育中心モデル、および、ルソーの系譜をひく徳育中心モデルに大別される(Cf.102)。前者がジロンド派コンドルセの案であり、後者はブキエやルペルチエらの案ということになる。ちなみにこれらの議論は、岩波文庫フランス革命期の公教育論』で確認できる。
具体的に述べよう。たとえば、徹底した徳育中心モデルとして興味深いのは、ミシェル・ルペルチエの「国民学寮」案である。ルペルチエは王党派のテロによって死亡するのだが、その案はロベスピエールの支持を獲得した。その内容は、次のようなものである――共和国の市民にふさわしい身体的・道徳的習慣を全く新しく作りあげるためには古い慣習に染まった親から子どもを隔離する必要があり、5歳から12歳(女子は11歳)までの子どもを国民学寮に収容し、同一の衣服、同一の食事、体育、徳育、労働実習を中心とするスパルタ教育が不可避である。同じ方向性は、サン-ジュスト、ダントンらによっても構想されたが、最終的には財政的な問題に直面し、また農村社会の実態からしても子供の隔離などは不可能であった。とはいえ、ブキエによる穏健で拡張的な徳育重視案は、一般市民を対象とする政治集会、演劇、国民祭典などを取り入れる教育案として現実のなかに生かされ、このブキエ案は初等学校法に反映されることになった。たとえば国民祭典などは、ロベスピエールが動員した有力な手法でもあった。
だが結局、こうした徳育偏重モデルは、テルミドールの反動によって崩壊し、1795年10月の公教育組織法(「ドヌー法」95年憲法の一環)では、コンドルセ自由主義と知育中心体系の一部を継承した法案が実現されることになった。しかしこれは教育の機会均等および無償性を取り決めたものではなく、もっぱらエリート主義的複線教育体制を準備するための中央学校の整備をめざしたものであり、コンドルセの本質的なアイデアが取り入れられたものとはいえなかった。ドヌー法自体は1802年にナポレオンによって廃止されるが、いずれにせよ第一共和制および帝政の時期には、世俗教育のシステムはエリートの中央学校のみが整備されただけであり、初等教育は積み残された結果に終わったと結論することができる。この積み残しによって、初等教育の世俗化問題は、国家と教会とのヘゲモニー争いとしてその後もずっと持続していくことになるのである。
さて今日は、この初等教育改革が、第二共和制の時期までの間にどのように進められていったかについてだけ確認しておこう。

1799年11月、ブリュメールのクーデター、総領政府成立(〜1804)
1801年7月、コンコルダート(政教協約)締結
1804年5月、ナポレオン皇帝即位、第一帝政(〜1815)
1814年4月、第一王政復古、ルイ18世即位
1815年3月、百日天下、6月、第二王政復古、カトリック国教化
1824年12月、シャルル10世即位(〜1830)
1830年7月、7月革命、8月、7月王政成立
1833年自治体に初等学校・初等師範学校の設置を義務づけるギゾー法成立
1848年2月、2月革命、第二共和政成立(〜1852)、6月、六月蜂起、教育の無償・義務・世俗化をはかるカルノー法提出(廃案)
1850年3月、ファルー法成立(公教育への教会の進出)
1852年12月、ナポレオン3世即位、第二帝政成立(〜1870)

実際の所、第一帝政復古王政ともに初等教育は教会に委ねたままであり、子供たちは教区司祭や教育修道僧のもとに留め置かれたわけだが、反カトリック的な7月王政になると、ようやく世俗の小学校の設立とそのための教員養成が課題とされるようになり始めた。1833年のギゾー法では、各コミューン(市町村)ごとに一校の公立初等学校、各県ごとに一校の師範学校の設置が義務付けられることになり、世俗的な教師は徐々に増加していくことになった。といっても教師の給与水準は高くはなく、19世紀後半までは改善されることはなかったのだが、それでも師範学校卒業の教師は識字力という優位性によって、各地方において小名士となることが可能であったという。教師は市町村の書記などを務めつつ、総合的な知的能力によって村の政治力を獲得し、こうした政治的資源によって彼らは、教会の司祭らと渡りあうことも可能だったという。
ところで7月王政においてシャルル十世がカトリック支配を復活させたことは、それに対する異議申し立てを生じさせた。それがすなわち7月革命に他ならないのだが、このとき共和派と教会は奇妙な蜜月関係を取り結んだという。その背景には、初期社会主義の運動を担ったアソシアシオニスト(協同組織主義者)、サン-シモン派やフーリエ派、カペ派などが、世俗的でありながら宗教的性格を持ち、原始キリスト教的共同体への回帰といった教説を説いていたことと関係する。しかし実際に、7月革命後の臨時政府の「宗教・公教育担当大臣」に元サン-シモニアンのイポリット・カルノーが就任すると、カトリック教会や王党派からは反発が巻き起こり、また共和派の教育政策も急進化した。イポリット・カルノーは、レイノーやシャールトンといったサン-シモニアンの系譜にある人物をブレーンとし、初等教育の無償・義務化という原則の確認、初等教員の待遇改善を指示したうえで、初等教員を「新しい共和国の使徒」と規定する大臣通達を各アカデミー区に送付したという。わかりやすい問答形式の道徳教育読本を編集し、全国の初等教員に配布するなどもした(160)。
こうしたイデオロギー性に対してカトリック教会は危機感を抱き、普通選挙の実施を梃子に王党派の政治力回復を図るなどの動きを見せた。そして1848年の6月蜂起ではパリ大司祭アッフルが銃弾に倒れるという事件がおこり、これを契機として、カトリックは保守派ブルジョワと結んで、蜂起民衆の弾圧の必要性について主張するようになる。6月蜂起の政治的影響はかなりのものだったようだ。カルノーは、公教育相を辞任追い込まれることになり、後任はなんと王党派のドー・ファルー伯爵が就任、カルノー法は一気に廃案が決定、カトリックの公教育への権限は段違いに増大したのである。なお新たに制定されたファルー法の内容は、次のようなものである。1中等教育の「自由化」、2大学局の形骸化と公教育高等評議会の設置、3アカデミーの細分化、4初等教育における宗教教育の尊重、5初等教育監督権の教会への大幅な異常、6初等教員資格の、職者資格による読み替えの容認、7初等教員処分権のアカデミー長官への一任。明らかにカトリック教会側が押し戻した恰好になっている。
こうして第三共和制になると再び世俗派=共和派が力を持つようになるわけだが、それはきわめて重要な部分でもあり、日を改めて整理することにしよう。