恋愛映画ですわ

seiwa2005-06-09

ギンレイで『きみに読む物語』(『The NOTEBOOK』2004年、ニック・カサヴェテス監督)を観た。ギンレイは、OLが多いためか、恋愛映画を上映することが多い。会員である私も、それにまじめに付き合っている。この映画も、コテコテの恋愛物だった。興行成績がけっこう良かったのだそうだが、たしかに恋愛映画としては、ほぼ申し分のない出来映えだと思った。
察するに、純然たる恋愛映画を作るのは、けっして簡単なことではない。「運命の出会い→永遠の誓い→ハッピーエンド」という恋愛の常道は、頭のなかでは成立するけれど、現実にはSFでしかない。それゆえ恋愛物においては、結ばれた二人は、少なくともどちらかが死ななければならないことになっている。記憶のなかで結晶化されることによってのみ、純粋な恋愛は完結するのである。トリスタンとイゾルデロミオとジュリエットタイタニック、すべてセオリー通りである。
しかしこの点で、『きみに読む物語』は、きわめてチャレンジングな映画であった。この映画は、痴呆症で記憶を失った妻に、夫が若き日の恋愛を語りかける、という回想形式を取っている。つまり、記憶を失ってなお、若き日からの永続的な愛をふたたび確かめようというのだが、これは、ありえないSF的設定というほかないだろう。とはいえひとまず、「死なせときゃ、純粋なままじゃん」といったセオリーへの挑戦心は、画期的暴挙として評価したいところであり、また実際に観てみると、評価してよい内容であるといってかまわないようにも感じた。
以下、ネタバレ批評。
「痴呆症」であるために、人生の最後にもう一度、純粋な恋愛を取り戻そうとしなければならなくなった、という設定は、一見上手いようだが、「痴呆症」という病気の性質からして決定的に無理がある。まず、その点の瑕疵は、否定できないだろう。
しかしこの映画が、ある程度、成功を獲得した理由は、次の点にあると思われる。この映画では、純粋な恋愛がほとんど不可能だ、という認識が徹底的して貫かれているのである。
まず、ヒロインは気分屋として描かれ、主人公の男も「思いつめたらトコトン」的バカとして造型される。こうした個人的属性が周到に描かれることで、「こいつらだったら、まあこうなるかな」という説得力が維持されている。決して、聖人君子が永遠の愛に殉じる、といった趣はない。
さらに、プロテスタント的な禁欲倫理を二人が内面化していることも、きわめて重要な要素である。最初に恋が燃え上がるとき、二人は結局、結ばれず仕舞いでおわるのだが、このときへヴィー・ペッティングどまりで終わっていたことが、再会を果したあとの恋の再燃をリアルなものとさせている。恋の抑圧されたエネルギーが、再会後の二人の愛の高揚感へとつながっているのである。*1
逆にいえば、こうした細かい設定がなければ、不可能な恋愛が、あたかも可能であるようには見えないのである。この脚本は、恋愛の不可能性を十分に踏まえているからこそ、上手い仕掛けをいくつも用意することができたのである。
まぁ、ネタバレ批評といいつつも、注目するところが普通の人にとってはどうでもいい所ばかりなので、これを読んだ後でも何の問題もなく映画を愉しめると思う。レイチェル・マクアダムズが、加藤ローサに似ていてキュートだったし、映像の美しさも特筆に値するので、暇な人は見てもよいのではないか。確かに、若き日の恋愛が持つ甘酸っぱさは、おおいに堪能できる。

*1:ちなみに、こうしたキリスト教的文化装置が使えない日本において、優れた恋愛映画を作るのは、ほぼ無理な相談であるとわかる。まずは、セカチューのように「白血病オチ」にするという戦略がありうるが、これは陳腐すぎて「優れた映画」になる可能性が期待できない。また、「身分の絶対的な格差」を利用した「禁断の恋」路線で突っ走る戦略もありうるが、これでは「時代物」になってしまう(溝口健二近松物語』を推奨する)。たしかに、戦後の近代家族規範が広範に浸透した時期には、恋愛映画というのは現実にありえた。大林宣彦さびしんぼう』は、富田靖子が反則なくらいかわいいのだが、この映画も、高校生が性的に禁止されていることによって、あの「甘酸っぱさ」を表現しえたのである。さて、この観点から「電車男」をどう分析するか?