少子化言説への身も蓋もないツッコミ

数日前、清水義範『行儀がよくしろ。』(ちくま新書)を読んだのだが、『運動靴と金魚』という映画への言及があったのが懐かしかったものの、とりたてて大した本ではなかった。しかし、教師も普通の人なのだから過剰に期待すべきではない、という話があって、これも当たり前の話なのではあるが、たしかに世の中の人は教師や学校に期待を寄せすぎているのかもしれないと思ったりもした。
家庭教師先の中学生女子にリサーチをかけてみても、公立中学の先生なんて、学力的には取るに足らない人たちがほとんどである。定期テストの作り方ひとつをとっても、知性なんてまったく期待することができないという印象を受ける。しかし、では教師の質を向上せよ、という方向に議論を向かわせるべきかというと、そうでは決してないだろう。だいたい、この位のレベルで満足すべきなんじゃないのか、と考えるべきだと思う(いや、さすがにもうちょっと頑張って欲しいかな?)。というのも、教師の質を上げるといったところで、以下に見るような動きは、明らかに不毛であると予測できるからだ。

中央教育審議会文部科学相の諮問機関)作業部会は6日、教員の質向上を図るため文科相の私的懇談会が設置を提言した教員養成専門職大学院の在り方に関する素案をまとめた。卒業に必要な45単位程度のうち、約10単位を学級運営などの実習に割き、実践的な教員を育てる。/「修了者に新しい免許資格を与えるか」などの課題を詰め、7月に中間報告を作成。文科省は2007年4月の開設が可能となるよう、必要な検討を進める。

バカである。だいたい、「実践的な教員」って何なのか?今の教師は、「実践的でない教員」ということだろうか?そもそも「実践的でない教員」って、言語レベルで意味不明。現在の教員養成系大学の位置づけおよび評価もなしに、こんな大ざっぱな話をしているんだから、まずは「実践的な審議員」を選びなおすところから始めないといけないのでは?
いずれにしても、「良い教師」「悪い教師」というのは、色々な評価軸があるわけだし、画一的に決定することは不可能である。また、たとえ何らかの評価軸を打ち立てることが出来たとしても、そのような教師を意図的に「育てる」ことなんて出来るはずがない。そういう意味で、教員養成システムというのは、最初から困難な課題を抱えているのであり、それを織り込んだかたちで、「教師集団に過剰な期待は抱かない」という常識を浸透させていくべきであろう。むしろ、そのような冷静な認識のなかでこそ、逆説的に、教師は自己のレベルアップに動機づけられていくのではないか。
それから今日は、赤川先生の『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書)を、第三章まで読んだ。この前半部では、少子化対策として男女共同参画社会の有効性を説く言説が槍玉に挙げられているのだが、統計的データを再検証するかたちで「身も蓋もないツッコミ」が繰りひろげられている。*1
たとえば「女性の労働力率が高い国では出生率も高くなる」という命題は、まずはサンプルの恣意的な選択によって主張された命題である可能性が高く、また女性労働力率が高いのは、出生率と直接の相関があるわけではなく、「第一次産業型社会と第三次産業型社会」という原因を想定することの方が妥当だと考えられるという。むしろデータ解釈のレベルでは、出生率向上に影響しうる要因は、女性に帰農をすすめたり、非都市化を促進させたり、といったことになってしまいかねないのである。したがって、上記のような命題を成立させているものは、フェミニズムをはじめとするイデオロギー的前提であり、実際の統計データの解釈からは、「男性が家事労働を手伝えば出生率は向上するかも」といった夢物語は紡げない、ということが分かる。本書で徹底的に検証されているのは、このようなことである。
なお読んでみて、重回帰モデルの有用性について直感的によくわかる説明がされていたところが、良かったと思った。やっぱり頭のいい「素人」に説明してもらうのが、こういう統計の場合には一番早道である。もっとも2元配置分散分析については、注でいいから、説明をつけて欲しかった。*2

*1:たしかに「身も蓋もない」というのは本当だと思った。こういう反論をやらなければならないというのは、なかなかストレスフルだろう。読んでいて、なんとも不毛な感じがした。敵がいかに駄目かと分かったところで、それは、ようやく問題のスタート地点に戻ることができたことを意味するにすぎない。なにかが前進した、というわけではないのだ。もちろん、この不全感は後半でリカバーされると期待してよいのだろうけど。

*2:石浜貞夫『SPSSによる多変量解析データの手順』(東京図書、1998)をチェックする必要がありそう。