リリー・フランキー『東京タワー』

夜明けまでかかって、リリー・フランキー『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』を読み終えた。たいへん密度の濃い、美しい作品である。文章の衝迫力はただならない。お薦めして良い本だと思う。

 「親子」の関係とは簡単なものだ。
 それはたとえ、はなればなれに暮らしていても、ほとんど会ったことすらないのだとしても、親と子が「親子」の関係であることには変わりがない。
 ところが、「家族」という言葉になると、その関係は「親子」ほど手軽なものではない。
 たった一度、数秒の射精で、親子関係は未来永劫に約束されるが、「家族」とは生活という息苦しい土壌の上で、時間を掛け、努力を重ね、時には自らを滅して培うものである。
 (中略)
 なにかしらの役割を持つ、家族の一員としての自分。親としての自分、配偶者を持つ身としての自分。男としての自分。女としての自分。すべてに「自覚」がいる。
 恐ろしく面倒で、重苦しい「自覚」というもの。
 その自覚の欠落した夫婦が築く、家庭という砂上の楼閣は、時化ればひと波でさらわれ、砂浜に家族の残骸を捨ててゆく。
 砂にめり込んだ貝殻のように、子供たちはその場所から、波の行方を見ている。(31)

 「オカン」を中心に語られたこの自伝的小説において、リリー・フランキーは「家族」という濃密な人間関係がもたらす「面倒」「重苦しさ」「息苦しさ」を、噛んで含めるような丁寧さで、描き切っている。冒頭に近い部分の文章から引いておこう。

 五月にある人は言った。
 それを眺めながら、淋しそうだと言った。
 ただ、ポツンと昼を彩り、夜を照らし、その姿が淋しそうだと言った。
 ボクはそれを聞いて、だからこそ憧れるのだと思った。このからっぽの都ですっくりと背を伸ばし、凛と輝き続ける佇まいに強さと美しさを感じるのだと思った。流され、群れ、馴れ合い、裏切りながら騙しやり過ごしてゆくボクらは、その孤独である美しさに心惹かれるのだと思う。
 淋しさに耐えられず、回され続けるボクらは、それに憧れるのだと。
 そして、人々はその場所を目指した。生まれた場所に背を向けて、そうなれる何かを見つけるために東京へやって来る。
 この話は、かつて、それを目指すために上京し、弾き飛ばされて故郷に戻っていったボクの父親と、同じようにやって来て、帰る場所を失してしまったボクと、そして、一度もそんな幻想を抱いたこともなかったのに東京に連れて来られて、戻ることも、帰ることもできず、東京タワーの麓で眠りについた、ボクの母親のちいさな話です。(4)

後半部分の印象が強すぎて、ややもすれば見落としてしまうが、リリーの高校から大学にかけての青春時代の記述が、ユーモアに溢れていて素晴らしい。

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~