『情熱大陸』大植英次

番組内容は、以下のとおり。

「世界驚嘆!オペラの聖地に新たな歴史を刻む剛健指揮者大植英次
情熱大陸◇指揮者の大植英次に密着する。22歳の時に渡米し、小澤征爾レナード・バーンスタインらに師事。現在はドイツ・ハノーバーを本拠地に活躍し、世界の注目を浴びている。そんな大植が、130年の歴史と高い人気を誇るバイロイト音楽祭の指揮台に東洋人として初めて立つ。歴史的大舞台に挑む彼の素顔に迫る。

知ってましたけれどね、この人。そんなにすごい人なのかな。でもバイロイト音楽祭の指揮台に立つということは、たしかにステータスなのだろうとは思う。
しかし、「彼の素顔に迫る」ということだが、はたしてどこまで迫ることができていたのだろうか。もし本当に迫っていたのだとしたら、こんな下品な俗物はちょっと敬遠せざるをえないように感じる。たしかにエネルギッシュだし、カリスマ性はあるのかもしれない。だが、上昇志向があまりに鼻につくのが、本質的な意味で問題だと思う。上昇志向をもつことを否定はしないが、真に価値ある芸術家であるならば、それを裏切る何かを持っていなければならない。少なくとも私が芸術に求めるものは、社会的次元を超えたところにある価値である。
永井均が、『私・今・そして神』の冒頭部分でいいことを言っていた。

 要するに、恥ずかしながら、私はまじめなことが嫌いなのだ。人生とか社会とかにとっての既成の有意味性に奉仕しているようなものは、どうしても、つまらない。無意味なこと、馬鹿馬鹿しいこと、が好きだ。ただただ無意味で馬鹿馬鹿しいだけのこと。それなのに、その中に示された型のようなものが、世界の本質をくっきりと映し出していて、ギョッとさせるような、何かそういったこと。これがいちばん好きだ。芸術と言われるものの中に、時にそういうものがあることは確かだ。哲学も、しつこい議論を通じてだが、そういうものをえぐり出すことができる時が確実にある。(17)

永井哲学の内容は相変わらず意味不明であるが、ここで言われていること自体は圧倒的に正しいと思う。『情熱大陸』では、大植氏が社会的名声を順調に得ていることはわかったけれど、彼が持っている「馬鹿馬鹿しさ」へのこだわりをまったく感じとることができなかった。もっとも、「既成の有意味性」にたいする「馬鹿馬鹿しい」までのこだわりなら、十分に伝わってきたが。