『「ダメな教師」の見分け方』

戸田忠雄『「ダメな教師」の見分け方』、なかなか良い本です。
教育というのは評価基準が明確にできないこともあって、戦後の教師集団は一貫して評価される立場に立つことを拒み続けてきました。しかし「ダメ教師」の存在自体は、かなりはっきりと分かるのですよね。「勤務評定」を実施するとすれば、ここら辺をおさえてやるのが現実的だと思います。

生徒の歯に衣着せぬ教師批評を聞いていると、ダメな教師はだれがみてもダメだという普遍性があるが、よい教師は生徒個々人でかなり違いがあるということを痛感しました。と同時に、文句なしに多数の生徒の信頼を得ている教師については、私から見ても同じでした。その教師は間違ったことをすると生徒に対して厳しいが、ふだんは温和で生徒の声に耳を傾け生徒思いで、しかも勉強家で学識が深く授業についても定評がありました。(88)

とはいえ、教師の世界が何の評価にもさらされずにきたことは、あきらかに行き過ぎた面があったと思います。戦後教育の歴史をふまえて戸田氏は以下のように述べています。

以前から、なにかといえば教育権は国民つまり父母にあるから、父母と連帯して教育に当たると、教員組合や教師団体は言ってきました。これもおためごかしの論理で「国民」とか「父母」を口実にして、つまるところ自分たち教師が、だれの干渉もうけないで自分たちの思い込みで教育に当たる、教師に教育権があると思っているのです。そんなに国民に教育権があることを強調するのなら、国民の信託をうけている政府や自治体教委の指示や命令に、もっと従ってもよいはずです。また、もっと児童生徒の思いや保護者の声に謙虚に耳を傾けるはずです。(60)

「教育権」を主唱した人々のうちには真面目な人もいたと思いますが、「教師が『教の論理』と言ったら教師の利害と立場に都合のよい『教の論理』、もっと言えばただの『教師のエゴ』に過ぎないのではないかと、一度は疑ってみることが必要です」(60)という戸田氏の言葉は、実態からすれば十分に説得的なのでしょう。
また戸田氏は、教育の評価が、教師の仲間内でおこなわれる「研修」というかたちをとることについても批判的です。佐藤学氏が槍玉に挙げられています。

教師の仲間内での研修をことのほか重要視するのは、学校教師だけが教育のプロだという気概、悪く言えば独善があるのです。「……学校づくりは授業の創造を基軸として展開される。そして、授業の創造を推進する基盤となるのが、教師たちが授業を公開し合い専門家として学び育ち合う連帯(「同僚性」=collegiality)の構築である」(佐藤学『教育改革をデザインする』岩波書店。…)
難しそうな表現だが、要するに、学校でいちばん大事なのは授業であり、それも教師同士が互いの授業を見せ合い、教師同士で切磋琢磨することが教育力を高めるという教師の常識を述べています。(142−143)

教育の評価が一義的には定まらないのを良いことに、教師たちは評価を避け、自分のプライドを温存させている構造があるわけです。戸田氏は職員会議についてもこう述べます。

職場慣行で職員会議が学校の意識決定機関のような様相を呈しているが、その議論のありさまはとうてい会議と呼ぶにふさわしいものではありません。悪く言えば小学生の学級内の話し合いのようなもので、それぞれ教師がてんでんばらばらに思いのたけをぶっつける場のようです。(…)
たとえば、「最近の生活指導上の問題点」という議題があるとします。…
…たいていは子どもが悪い、家庭のしつけが悪い、社会も悪い、そして組合活動家は、最後に政治が悪いというところまでいきます。つまり具体的な提言とか提案とか対策ではなく、しばしば教師の現実性のない観念や理念が飛び交うだけで、議題にそって話が収束していかないのです。ばかばかしいのか居眠りしたり、内職したりする教師もいます。
こうした議論の背景には、まず生徒指導係が問題を担任を丸投げしてきたことへの、なんとはなしの不満があります。また具体的に対策を出すと、だれかに負担がいくから観念論に走る。教師は互いにプライドが高いことは十分承知しているからだれも傷つけたくないし、さりとて自分で問題解決しようという気持ちはさらさらない。そこで多くは居眠りか内職か、アウトサイダーを決め込むのです。最後は「社会」か「政治」、または「校長」が悪いというところに話が落ち着きます。体のいい責任転嫁です。(160−161)

なかなか冷静な分析だと思います。
なお、本書の206ページあたりには学校選択制が無効だという話が出ています。著者によれば、教師の人事は教委主導のローテーション人事になっており、その質が平準化されてしまっているから、制度は結果として無意味になるというのです(著者は代わりに、教員の格付けをおこない、質の高い教師を「評判の悪い学校」に、質の高くない教師を「レベルの高い学校」へ振り分けるというユニークな案を提示しています)。しかし、学校選択制は、校長の人事権の強化と抱き合わせで実施されるべき制度のはずで、これは当たらないと思います。
いずれにしても、本書の主張は大部分まっとうな主張で占められており、このようなまっとうさが教育界では特殊にうつってしまうことの意味をあらためて考えさせられました。著者の戸田氏も、以前の日記で紹介した殿前康雄校長(『都立高校は死なず』)よりもソフトな雰囲気で、なかなか好感のもてる語り口でした。

「ダメな教師」の見分け方 ちくま新書 (547)

「ダメな教師」の見分け方 ちくま新書 (547)