成瀬巳喜男『稲妻』(1952)

seiwa2005-09-02

フィルムセンターにて。

原作は林芙美子の小説、脚本は田中澄江、舞台は東京の下町。母親(浦辺条子)は生んだ子どもたちの父親がみんな違うだらしない生き方、長女(村田知英子)次女(三浦光子)長男(丸山修)はそれぞれ性格が違うが、ぐうたらなところは母親ゆずり、ただ一人、観光バス・ガールをしている三女清子(高峰秀子)だけはしっかり物で、そんな一家の生活風景が、狂言まわし的な役割も兼ねたこの清子の批判的な眼を通して描かれていく。すでに結婚している長女と次女のちょっとしたトラブルもあるが、まったくどうにもならない暮らしぶりで、我慢できなくなった清子が母親に怒りをぶつけてもヌカにクギ。そんなやりきれない場面が、成瀬巳喜男監督らしいシニックなタッチを加えて描かれていくのだが、見終ったあとには人間的な温かさにつつまれる。上野界隈を中心とした下町の味がふっくらと感じられているおかげでもある。☆☆☆★★★

たしかに、1950年代初頭の東京の街並みが、いまとなっては味わい深い。ロケだと思われる情景の美しさも、成瀬映画の見所といえるかもしれない。
さて、『妻よ薔薇のやうに』の「女流歌人の妻」しかり、『めし』の「夫の姪」しかりなのだが、この映画でも「明らかにどうしようもない人」の描かれ方が興味深い。しかも、この映画ではたくさんの「ダメ人間」が出てくるのだが、近代人の合理的感覚からすればまったくまどろっこしい、整理のつかない、自分勝手な考え方をする人々への注目の仕方が独特なのである。
現実は複雑であって、それに対応して、現実を生きる人々も多様である。言葉のまったく通じない人も存在するだろう。しかし、そういう人々の考え方、感じ方をまるで否定することは、現実の複雑さを否定することにほかならない。そういう現実とどのように距離を取り、どのように付き合っていくか、ということは永遠のテーマではあるが、しかしどこかで厄介な現実への肯定感が抱けなければ、生きることの充実は見出せない。
この映画でも、稲妻が光ったり、ピアノの曲が流れてきたり、そうしたどうでもいいようなことで、主人公の心理ドラマの展開が導かれるのだが、そのような理屈で説明のつかない「現実感」の説得的描写が、あいかわらず素晴らしかった。日が没し、暗い部屋に灯りがともって、感情の和解がもたらされるという仕掛けは、『めし』と共通であるように感じられた。