成瀬巳喜男『めし』(1951)

seiwa2005-09-01

名作。原節子が素敵すぎる。

大阪は庶民的な天神の森界隈、貧相な、と形容したくなるような家に一組の夫婦(上原謙原節子)が暮らしている。二人は恋愛で結ばれ東京から移ってきて、夫は証券取引の小さな店に勤めているのだが、もう中年にさしかかって倦怠期、妻も毎日が同じことのくりかえしの生活が息苦しくなっている。そんなところへ家出して東京から逃げてきた夫の姪(島崎雪子)が転がりこんでくる。夫は急に元気づき、彼女をあちらこちらに案内してやったりするので、妻には嫉妬に近い気持ちが湧き、我慢できなくなって東京へ帰ってしまう。が、慌てた夫が迎えにくると、何事もなかったように受け容れる。というすこぶる簡単なお話だが、淡々としたタッチで心理の起伏をとらえているのが成功で、成瀬巳喜男監督らしいシニックな視線を感じさせながらも全体として微笑ましい一時間三十七分に仕上げられている。原作は林芙美子の未完の長編で、脚本は田中澄江井手俊郎。はじめのほうに妻の現在の心境がナレーションで入るのが、意表をついた手法だった。☆☆☆★★

という「まとめ」なのだが、こんな風にまとめられちゃうと、この映画の本質的な良さがまったく伝わらない。たとえば、家出の姪(島崎雪子)だが、滅茶苦茶わがままな娘である。けして生活が楽とはいえない原節子の家に上がり込んで、お客様気分、原節子もさすがに立腹せざるをえない。細かな生活の苦労が、そのような傍若無人さによって、いや増すのである。上記のまとめでは「妻の嫉妬」ということになっているが、これは「倦怠」がテーマであるので、さまざまな日常の気遣いが、「ここではないどこか」を原節子に夢見させるという点を、是非とも押さえておく必要がある。
したがって、この映画において見るべきは、何ということはない日常の出来事が、人に倦怠を呼びおこさせていくことの、細かなリアリティにある。成瀬監督は、そうしたリアリティをさまざまな小道具、設定を巧みに利用して、描くことに成功している。感嘆するほかない手腕だと思う。靴、飼っている猫、同窓会、姪の我儘、母と妹夫婦の生活、台風、ネクタイ、紳士の従兄弟。こういう設定や登場人物が、日常の構成要素として並置されていて、それらが「観念的な理解」とかいうレベルではない部分で、「心理の揺れ動き」を生じさせるのである。
最終的に、原節子は「ここではないどこか」ではなく、それを生きていくなかにしか果実は得られない「日常としての現実」へと還ってくる。それは理屈ではないし、「心理の揺れ動き」の「単なる一帰結」にすぎないともいえるのだけれど、でもそれはたしかに「正しい選択」であったかのように、観客には感じられてしまうのが不思議である。この映画は、観念ではなくて、情緒だけを描こうとしている。だから名作なのだと思う。