本田透『電波男』part2

恋愛資本主義の搾取構造(=「あかほりシステム」)は、真の愛情から疎外された非人間的な社会システムを形成しているわけだが、そのことによってキモメンは、恋愛市場主義にどっぷり浸かった女たちから苛酷な仕打ちを受け、精神的ダメージを日々経験することになる。その象徴的事例として、著者は、キモメンの恋愛における「池鶴関係」から「寅別関係」への移行について、興味深く語っている。

 モテない男であれば、ある日ある瞬間になぜか突然ドン引きされて逃げられた痛い経験があるだろう。この本の冒頭で俺が突然喫茶店で切れられてしまったような、そんな理不尽な経験が。そう、それは、「池鶴関係」が壊れて「寅別関係」に移行してしまったということなのだ。(84)

つまり、こういうことである。

 すでにお分かりのように、多くの場合、池鶴関係下では、この関係をお互いに対等な「男女関係」だと思っているのは男だけで、女は「ペットと一緒にいる」くらいにしか思っていない。そこで突然、ペットの犬がペニスを勃起させて迫ってきたら、ドン引きして当然、というわけである。キモメンに女が親しげに近寄ってきたとしても、彼は男だと思われていない。「俺は男だ」と言った瞬間にドン引きされて、逃げられるのだ。……
「決して現実の女性に辿り着けないのじゃよ」(84)

この関係について理解するためには、花沢健吾ルサンチマン』(小学館)を読まないといけないらしいが、そういや、芸能界とかでもオカマ需要が根づよいのは、女が「池鶴関係」を望んでいるからなのだろう。だがもちろん、男はオカマではない。女が男を男として見ないとしたら、それは女が一方的にそのように見なしているからなのだ。しかし、そのような女の身勝手さは、許されるものなのだろうか。著者はみずからが味わった精神的苦しみを乗り越え、このように宣言する。

 そう、俺はずっと、この「ドン引きの瞬間」、「突然目の前に見えない壁が現われる瞬間」について悩み苦しみ、
「自分は被愛妄想という病気を持っているのだ、女とまともに関係できないのだ、関わった瞬間にストーカーになってしまうのだ。俺は…女を傷づけることしかできない、最低の男なんだ!」
と思い込んで女から逃げ回る人生を選んでしまい、ドツボにはまった
 しかし、関係の構造が見えてしまえば、何のことはない。自分は別に間違っていなかった、ということがよく分かった。悪いのは、大の男を犬猫と同等以下の存在として扱って平然としている女のほうなのだ。いざこちらが「俺は男だ!」と言い出したからといってドン引きして逃げ出す女こそが、人の心を平然と踏みにじれる悪党なのだ、と理解したのだ。(88)

さて、オタクだ。このように愛のない女たちが量産されてしまっている背景には、恋愛をすべて商品として物象化させる「恋愛資本主義」の魔力があるのだが、オタク文化はこの「恋愛資本主義へのカウンター」となりうるというのが、著者の主張である。そもそもオタク文化は、つねに社会改革への欲望とともにあった。1970年代までの初期オタク文化の中心はSFであったが、SFは、学生運動の敗北などで現実の社会改革が不可能になり、サブカルチャーが解体するなかから生じてきたジャンルだったのである。もちろんそれは、現実の社会改革からの逃避ではあったけれど、逃避しつつも追求されていたのは、やはり「今とは異なる別の社会」だった。
そしていまや、このような社会改革への意志は「萌え」において継承されている。
1980年代初頭に大ヒットした『機動戦士ガンダム』は、従来からのSFファンとの間に世代間闘争ともいうべき分断状況を産み出したが、ガイナックス社設立によるアニメの主流化、および『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)の大ブレイクによって、「萌え」は一気にメインステージへと躍り出た。厳密には、『ガンダム』後の『超時空要塞マクロス』における恋愛ストーリーで「萌え」の源流、「萌え」へといたる転換点が見出されるそうなのだが、まあそれはよいだろう。とにかく、『エヴァ』は「キャラ萌えアニメ」として受け容れられ、また『ときめきメモリアル』(1994)などの「恋愛ゲーム」の隆盛もあって、オタク世界は「SF→ロボットアニメ→キャラ萌え」という進化発展図式を完成させたわけである(97)。
このとき、オタクが「キャラ萌え」において示した「思想」は、次のようなものだった。

…オタクの最終形態である「萌え」に至ると、ロボットや超能力というSF的な属性によって主人公の能力を拡張し、社会や現実と対立して闘争を行うというサブカルチャーのお約束的前提そのものが完全に放棄された。『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公シンジは、世界を自由にできるエヴァンゲリオン初号機という超兵器を手に入れながら、最後まで戦おうとせずに逃げ回る。シンジにとっては世界の運命などどうでもよく、ただ「女の子に愛されたい」という恋愛願望だけが重要だったのだ。『エヴァ』は従来のSFやロボットアニメが妄想してきた「対社会」という関係性そのものを放棄し、「対異性」という一対一の関係、つまり恋愛関係という問題こそがオタクにとっては真に重要なのだ、という座標軸を示した。
……
 こうして書くと「単に社会から逃げて脳内世界に引きこもっただけじゃないか」と言われそうだが、後述するように、この戦略はこれはこれで正しいのだ。……かつて忍者劇画やSFの敵は単なる「資本主義」であったが、八〇年代以後、オタクの敵は「恋愛資本主義」になったからである。すなわち、恋愛そのものが人間を消費する歯車に落とし込むための装置になってしまったことに、オタクは本能的に嫌悪感を抱いているのだ。(101)

では、現実にオタクはどのようにして「恋愛市場主義」に対抗することができるのだろうか。著者によると、オタク市場の原理は、「恋愛そのものを商品化することにより、恋愛行動によって大量の消費を行なわせるシステム」(「恋愛資本主義」=「あかほりシステム」)とは根本的に異なる原理によって構成されている(102)。著者はそれを「ほんだシステム」と名づけている。

 ……オタクは金をほんだシステムの内部で永久循環させることができる。永久に湧いてくる動力の源となっているのは、「萌え」心だ。オタクは、萌え心によって自家発電する能力を持っている。
 萌えキャラでオナニーできるという意味も含めて「自家発電」だ!
……
 この「ほんだシステム」が本格稼動し始めたのは、現在30代のオタク世代があれこれ動きはじめた頃からだ。つまり同人誌市場が巨大化するとともに、オタクは「ほんだシステム」を形成して発展させていったのだと考えればよい。同人誌市場では資本家と労働者、イケメンとモテない男という搾取の構造はなく、ほぼすべての参加者が自らの稼いだ金をまた別のオタクグッズを購入する資金として消費する。これをグルグルと繰り返すことによって、「ほぼ搾取なき、平等に近い永久循環経済」が成立するのだ。(102−104)

システムが自家発電的な「萌え心」を駆動エネルギーとしているかぎり、人間の内発性は失われず、したがってシステム「への」/「からの」疎外もまたありえない。しかし、「あかほりシステム」においては状況はまったく別である。「あかほりシステム」では、システムの駆動原理は「容姿」、あるいは恋愛を証し立てる「商品」なのである。それゆえ、「容姿」にも「財力」にも恵まれない多くの人間は、システム「から」疎外されることになり、また「容姿」や「財力」のある人間も、システム「へと」疎外されることによって、「真の愛」を見失うことになる(「真の愛」「からの」疎外)。
だが、「ほんだシステム」において実現されているという「真の愛」とはいったい何か。また、「真の愛」を追求することにどんな意味があるというのだろうか。
この問題については、『負け犬の遠吠え』の酒井順子批判のなかで議論されているのだが、今日はここで中断することにしよう。予告しておけば、この酒井批判はあまりにも深く、重い今日的テーマを孕んでいる。明日、議論したい。

電波男

電波男