本田透『電波男』完結編

恋愛資本主義に染まった女たちの、愛のなさ。著者の問題意識の根底には、この思いがある。したがって、オタクへのバッシングは二重に不当だということになるだろう。彼女たちは、愛のないシステムに平然と乗っかりつつ、そのうえでなお、愛のないシステムから降りようとする者たちを手ひどく非難するのである。

 恋愛資本主義社会では、女はモテない男にちやほやされる存在だ。女自体が「商品」なのだから。いかにモテない男から金品を収奪し、自分のために大量の消費をさせるかが、女の「商品価値」をはかるバロメーターなのだ。恋愛資本主義においては女は(若くて綺麗なうちは)「強者」かつ「勝者」であり続けられるのだ。だが、オタク界は、男だけで成立しており、女は脳内の萌えキャラで代替されている。オタクにとっては、三次元の面倒臭い女よりも、二次元キャラのほうが「萌える」のだ。故に、たいていのオタクは三次元の女に対し、恋愛資本主義のお約束となっている奉仕活動を行わないし、彼女たちの機嫌も取らない。男だけ、自分だけで自足している。
 マスメディアによって、恋愛資本主義ではオタクは最底辺の存在ということにされている。だから、女に媚びへつらって当然だと、女は考える。しかし、レベルの高いオタクにとっては、
二次元>>>>>(越えられない壁)>>>>>三次元
 なので、三次元女にへつらわない。故に激怒される。(107)

オタク市場は、恋愛を経由して消費行動を促進させる既存の資本主義システムとは、異質な原理を内包させている。著者は言う。「このところ、しつこく繰り返されるテレビメディアによるオタクバッシングは、そんな電通の焦りから来ている、と俺は勝手に断言するね。テレビメディアからは、オタクのイメージを落としてオタク市場の成長をストップさせようという悪意があからさまに見受けられるが、結局そのテレビもアニメに頼らなければならなくなるのだ。バブルがはじけた今、テレビ局にホイホイと大金を出すスポンサーなど、そうはいないのだから」(106−107)。
「ほんだシステム」の堅実な成長・拡大・進化を目の当たりにして、電通などのシステム構築主体は、「オタク」を恋愛資本主義の側へと引き込む戦略に躍起になっている。ジェネオン・エンタテインメントの設立ばどはそのあらわれであるが、たとえばドラマ「電車男」なども、「ほんだシステム」に対する懸命の揺さぶりとして考えることができる。
一方、恋愛資本主義において「商品価値が下落」し、その当然の帰結を受けいれられないがためにオタクに対するヒステリックな非難をおこなっているのが、酒井順子らの「負け犬」たちである。

 ……「今、日本で余っているのはつまり、(中略)私みたいな女と、おたく君みたいな男なのだ!」(酒井順子『負け犬の遠吠え』講談社
 つまり、酒井順子によると、オタクが二次元キャラとの恋愛にしか興味を持たず、自分のような現実の三十女に興味を持たないのが悪いのだ、という訳。この文章を読んで、俺はあまりのショックに悟りを開いてしまったわけだ。
 この女は、なぜオタクが現実の三十女に興味を持たないのか、なぜ二次元を愛するのか、一度でも真剣に考えたことがあるのだろうか。(109)

 ……いずれにしても、このような酒井順子の文章を読んで、そこに「真実の愛」の可能性を見出せるオタクはほとんどいないだろう。酒井順子はオタクは相手にしたくないとオタクを切り捨てるが、こっちこそ、こんな金にまみれたバブルの遺物のようなオバサンは願い下げである。
  「アニメの美少女に「萌え〜」としているおたく君は、まかりまちがっても三十女とデートなどしたくないだろうし、三十女としてもおたく君と一緒にイタリア料理屋に行って、生のポルチーニと乾燥ポルチーニの味わいの違いについて話す気には絶対なれない。(酒井順子『負け犬の遠吠え』講談社)」
ポルチーニが生だろうが乾燥だろうが、お前の人生には何の関係もないだろう。っていうか、ポルチーニって何?犬の名前?それがあなたの言う「恋愛」なの?それって、女性ファッション雑誌を読んで刷り込まれただけのお仕着せの幻想なんじゃないの?もっとはっきり言えば、負け犬女とは「恋愛資本主義」に30年以上洗脳されて騙され続け、消費させられ続けてきたあげく、愛を得ることができず、それでもなお目を覚まさずに騙され続けていく哀れな人たちなのだ。(109−110)

ドーン!よくぞ言ってくれた。これは、きわめて根底的な社会批判である。資本主義に見られるように、近代社会の合理的再編はたしかに人間を自由にした。もちろん(マルクス主義系)フェミニズムがかつて解明したように、近代過渡期においては、「非資本主義」の領域からの搾取構造によって「資本主義」が温存されている、という二重構造が存在しており、それゆえフェミニズムはさらなる自由、さらなる合理化を求めることになった。とはいえ、「合理化」「自由」が、それ自体として価値であった時代は終焉しつつあるのではないだろうか。合理化がもたらす自由を獲得して、そのうえで生きる価値をどう見定めるのかという問題意識が、いまや必要とされているのではないだろうか。「ヴァナキュラーな生活世界」にこだわったイリイチを私が嫌いになれないのは、そのためである。
このような観点から、次の『電車男』(本の方)批判に目を向けてみよう。

 負け犬は30年もの間、オタクを軽蔑してきた。今、食糧難に陥ってセックスに不自由しはじめている負け犬女は、純真で心優しく、どうにでも御しやすいオタクに目をつけた。オタクでもなんでも、ちんちんがあれば男、とかそんな感じだよ。DQNが、穴があればなんでも女、とか考えているのと、たいして変わらないのだ。内心では、今でも相変わらずオタクを軽蔑し続けているのだ。そうでなければ「同人誌をやめろ」などと言えるだろうか。オタクの誇りを捨てさせるような「踏み絵」をやらせるだろうか。
 内心では軽蔑している男と付き合う……。純愛主義者のオタクには考えもつかない世界だが、それが実際にあるのが恋愛資本主義の恐ろしさよ。恋愛資本主義では、恋愛はすべて、セックスとか金の交換によって成立するので、「支配=服従」という関係になってしまう。対等の関係、平等の関係はない。これは、エルメスだけに限った話ではない。恋愛資本主義の下では、すべての女が、すべての男が、そういうふうに異性を「恋愛マニュアルで高偏差値を取れる人間」に改造しようとする。もちろん最初から高偏差値なら文句なし。ダメそうでも、なんとかしてマシにしようとする。しかもそれを「教育」などと呼んだりする。これはもう、人間同士の対等な恋愛ではないぢゃないか。(208)

ということで、紹介おわり。みなさん、かならず読もうね。http://ya.sakura.ne.jp/~otsukimi/

電波男

電波男