『唯物史観の原像』

資本主義について再考するために、名著『唯物史観の原像』(三一新書)を再読。

……結論を先取りして言えば、一八四五年ごろを境にして、マルクスの思想的地平、世界観的「構えのとりかた」に飛躍的な発展がみられる。それは、しかも単なるマルクスという一人の思想家における飛躍という意義をもつにとどまらず、思想史的にみて、かつてデカルトが近代哲学の地平を拓いたと言われうるのと類比的な意味において、新しい世界観的な地平を拓いたものとして劃時代的な意義をもつ出来事であった。マルクスは、単にヘーゲル学派的な枠を端的に超出したというにとどまらず、まさしくそのことを通じて、デカルト以来の近代的な世界観の地平そのものを超克しつつ、それにかわるべき真に現代的な世界観の地平を拓いたということができる。(61)

著者は宣言する。「われわれは、この『初期マルクス』から『後期マルクス』への世界観的な構えの飛躍を『疎外論の論理から物象化論の論理へ』という成句で象徴的に表現することができるであろう」(62)。今日は、思想史的に見たマルクス思想の新しさ、物象化論の世界観とはどのようなものか、についてメモしておきたい。

 マルクスは「人間」の問題から「社会」の問題へと思索をすすめ、そのことを通じて唯物史観を確立していった。マルクス主義の姿勢そのもの、唯物史観の発想法そのものを理解するためには、この間の事情を念頭におくことが是非とも必要であるように思う。(11)

 「人間から社会へ」というと、モンテスキューやルソーとも同じだと思われるかもしれない。彼らも或る意味では、なるほど「人間をありのままにとらえようとし」、「第一に人間を考究」するなかから、社会の問題へと導かれたのであった。だが、内容的にはまったく別である。
 モンテスキューやルソーにかぎらず、一般に近代フランスやイギリスの思想家にあっては、また、カント時代のドイツ思想界においても、社会的諸形象、この人間にとっての環境世界は「第二の自然」として考えられており、それが「第二の自然」である所以でもあるのだが、社会というものは人間(諸個人としての人間)によってつくりだされたものとして考えられていた。
……
 人間というものは、たしかに、環境によっておおいに規定される。だから、人間というものを十全に知るためには、環境としての社会を研究する必要がある。また、社会というものは、神がつくったものでも自然そのものでもないわけであって、たしかに人間がつくったものである。しかも、この社会をつくるということが、人間にとって偶然的な事柄ではなく、人間の本性に根ざすものだとすれば、人間の本性を知るためには「社会」を知ること、人間がどのようにして社会を形成するかということの研究が必要になる。このような事情で、当時の先進国であったイギリスやフランスの思想家たちは「人間から社会へ」という途を進んだのであった。(16)

マルクスは、このような17・18世紀の啓蒙主義的認識とは別の角度から、社会と人間のあり方を捉えようとした。言うまでもないことだが、マルクスヘーゲル思想の圏内から思考を出発させたのである。はじめはヘーゲル左派として。さらにはヘーゲル左派そのものを乗り越えるようなやり方で。では、マルクス思想の土壌たるヘーゲル哲学の特質とはどのようなものであったか。著者は、「ヘーゲルの思想は『ドイツの後進性』を反映して旧い発想法に支えられている」との批判を部分的に了承しつつも、次のような意義づけをあたえようとしている。

 抽象的に言ってしまえば、それは啓蒙主義的な理性主義に対するロマン主義的な反動というかたちをとったわけであるけれども、この“反動”は決して単純な保守ではなかった。少くともドイツ・ロマン主義に関するかぎり、ドイツの近代化=市民社会の確立がもはや不可避であること、しかし、この来たるべきドイツの状態は英仏の市民社会のごときものであってはならないということ、とりわけ、諸個人がバラバラな私人として、アトム的に分立するゲゼルシャフトリッヒな状態の現出であってはならないこと、しかもドイツ民族の統一に立脚した一つの共同体(ゲマインシャフト)としてそれが実現さるべきこと、このような了解と志向がそこには投影されていた。(17)

……ヘーゲルは、青年時代以来、人間の在り方を人倫sittlichkeitとしてとらえていた。この「人倫」は或るときには「民族(フォルク)」として、また或るときには「国家」として、具体的に表象されるが、彼は古代ギリシャのポリス共同体を典型として思いうかべながらそれを論じている。(18)

 ヘーゲルアリストテレスのポリス的動物という人間の規定を直接に踏みながら、そしてポリスをフォルクと訳しかえながら、次のように書いている。
 「民族(フォルク)は本性上、個別者に先立つ。けだし、個別者は孤々には独立自存のものではなく、部分というものがいずれもそうであるように、全体と一つの統一をなさねばならぬ所以である。共同的に存在しえぬ者、ないしはその独立性のゆえに欠くるところなきものは、民族の部分ではなくして、獣か神かである。」
……彼のいう民族(フォルク)と個人との関係は、単なる有機的全体とその分肢との関係ではない。それは類的普遍と個別的個体との関係として、ヘーゲル自身においてとらえかえされた。……ここでは後期のヘーゲルが『小論理学』のなかで書いている象徴的な一文をストレートに掲げておこう。
「普遍は個別的なものの実体である。例えば、……或る都市の住民ないし或る国の住民を考えてみれば、彼らがすべて人間であるということは、単なる彼らに共通な事柄なのではなくて、それは彼らの普遍であり、なのであって、もしもこのが存在しなければ、個々の人間は全く存在しえないであろう。」(19−20)

わかるかな?「普遍」とか「類」とかは、悟性的概念として分類の対象となるようなものでは決してないのだよ。人間を「個人」としてアトム的にとらえるような発想は、根底から否定されているのだよ。したがって、ヘーゲル哲学における「絶対精神(「民族精神」が理念化・絶対化されたもの)」の概念は、本来個々の人間のなかに宿っているものなのだよ。「さりとて、民族精神というものは、その民族に属する諸個人の精神の代数和ではないし、いわんや平均でもない」のだよ(21)。
まあいいや。で、ヘーゲル左派なのだが、「ヘーゲル左派の一番手、シュトラウスは、『神人』Gottmenschの概念を再解釈してみせることによって、ヘーゲル哲学の批判的超克、さしあたってはフォイエルバッハ人間学への途を切り拓いた」んである(22)。ヘーゲル哲学における「絶対精神」の宗教哲学的読解が、フォイエルバッハの「類的存在」認識を生んだわけである。

 絶対的な実体であるところの絶対者=絶対精神は、単なるスピノザ的な実体ではなく、またアリストテレス的な「不動の動者」ではなく、同時に自己運動的な主体であり、不断に自己を外化する運動の相において在り、そのことにおいて精神としての実を示す。イエス・キリストにおける神の受肉、つまり「神人」は、このことを象徴的に告知するものである、とヘーゲルは考えた。ヘーゲルの思想からすれば、しかし、神はイエスという一人格において一回起的に顕われ給うのではなく、人類の世界史的展開の全過程を通じて、不断にかつ次第に自己を顕現し給うのでなければならない。……
 こうして、神が世界史の総過程を通じて、すべての人間、すなわち、人類…において受肉するのだとすれば、神はこの人間性=人間の総体=人類のうちに定在するということになる。……神は人類の総体を離れては存在しない。すなわち「神」と人類=人間性の総体=類としての人間とがイコールで結ばれてしかるべきである。そして、イエス・キリストが象徴するように、人間の本質、人間の類的本質は「神」にほかならないということになる。(22−23)

この論理展開のダイナミズム。ヘーゲルにおける「主語と述語の転倒」は、シュトラウスによって指摘され、フォイエルバッハによって大胆に推し進められた。

 フォイエルバッハは、こうして人間を類的存在と呼び、「人間の本質はゲマインシャフトに存する」という。彼のいう「類的存在」……は一義的ではないが、(1)他の動物たちが個々の仲間動物を認識することしかできないのに対して、人間は、事物とりわけ人間を類として対象的に意識する動物であるということ、(2)人間は思考つまり内なる対話において、個別的な汝との対話ではなく、汝一般、類としての汝との内的対話をおこなうことにおいて、単なる一私人ではなく、汝一般=類としての汝を内に宿す存在であるということ、(3)しかも単なる意識主体としての在り方にとどまらず、自己の本質を「人間と人間との共同態(相互作用)のうちに、他の人間との統一のうちにもつ」存在であること、このような意味を含んでいる。(24−25)

フォイエルバッハは、「個々の人間には単独には道徳的存在としても思惟的存在としても、人間の本質を自己のうちにもたない。人間の本質はもっぱらゲマインシャフトに存する」という人間了解をもっており、青年マルクスはここから出発して、「人間の本質は共同体に存する」「人間の本質は社会[社会性]に存する」という洞察を得ることになった。これが、イギリスやフランスの啓蒙主義的人間観とはまったく異質のものであったことは、もはや明らかだろう。
長くなりすぎたのでそろそろやめるが、とにかくマルクスは、このようなヘーゲル左派的視角から出発して、類的本質としての「人間的解放」を実現する「民主制国家」「共同社会」を構想しようと試みた。フォイエルバッハは宗教学的な問題意識がつよかったが、マルクスは現実社会をめぐって課題意識を抱き、ヘーゲル法哲学批判、アダム・スミスの経済学批判という道をたどって、『経哲草稿』までの思索を積みかさねるのである。しかし『経哲草稿』においては、「私有財産における三重の疎外」という概念把握にはいたったものの、「私有財産の歴史的成立の事実的過程とその根拠、さかのぼっては労働の疎外の歴史的成立とその経緯をまだ説明できなかった」(47)。それゆえ必然的に、「私有財産ひいては疎外の止揚としての共産主義」の理論化も確実なものとはできないでいた(47)。
そこで『ドイツ・イデオロギー』である。『ドイツ・イデオロギー』では、「疎外」の概念把握自体が根本的に転換され、社会的協働関係に照準することによって、歴史的な弁証法的プロセスを視野に入れる語りが見出されることになった。これが、冒頭に引用したマルクス思想の画期性にほかならないのであるが、この点についてはまた今度紹介しよう。