ポランスキー『水の中のナイフ』

ロマン・ポランスキー監督(1933〜)のデビュー作。フィルムセンターの小ホールにて。パンフレットには、このような紹介文が載っている。

湖沼地帯に向かって外車を走らせるアンジェイとクリスティナは、途中で若い男を乗せ、さらに自家用ヨットの航行に誘う。三人三様の精神的空虚を暴くポランスキの長編デビュー作。以後、『戦場のピアニスト』(02)までの40年間、祖国で映画を撮ることはなかった。無国籍性と消費文化肯定が当時の共産党第一書記の逆鱗に触れたが、作品は国際的評価を受け、逆にポーランド映画の高い芸術性を世界に知らしめた。

観ていてすぐに、7年前に渋谷ユーロスペースで観たことがあるのを思い出した。内容はかなり忘れていたが、クリスティナのセクシーな水着姿を見て、記憶がかなり鮮明によみがえってきた。
これまでポランスキーの映画は、大学一年のときにユーロスペースで3〜4本観たのと(「REPULSION 反撥」「袋小路」だったと思う)、フィルムセンターでも、『テス』という長編大作を観たのとがある。また『戦場のピアニスト』もどこかで観たけれど、そうじて私好みの作品を撮る監督だという印象が残っていた。『戦場のピアニスト』なども、世間の人がどう観たかは分からないが、きわめて病んだ作品で、ウチのオカンなどは「戦争の残酷さを描いた映画だ」と誤解していたけれど、じつは「戦争でなくとも日常そのものがすでに狂気だ」という救いがたい感受性に満ちた映画なのだった。ちなみに、私が1番好きなのは『テス』。
本作『水の中のナイフ』(1962)も、緊張感みなぎる心理劇が展開された秀作である。
登場人物は、たったの三人。しかも湖上のヨットの中の一日という設定なので、実質的に密室劇となっている。たるんだ箇所は一切なく、その手腕はさすがといってよいだろう。メインに展開されるのは、言うまでもなく、登場人物の「三角関係」である。
しかし、この映画がただの「三角関係」を描いているわけではないのは、その心理劇に、「三者の精神的空虚」という、重要な意味合いが込められているからである。登場人物の三人のうち、誰一人として、「真実の愛のための三角関係」を信じているものはいない。三人はそれぞれ、二者関係における「極度の安定性」(あるいは「極度の不安定性」)から逃れられようとするためだけに、もう一人の存在を必要としているのである。
簡単に整理しておこう。アンジェイとクリスティナは、充足しているが目的を見失い、贅沢な消費生活にも倦怠した金満カップルである。一方、かれらのバカンスに加わるのが、エネルギーは十分だが、目的も手段も見定まらない無軌道な若者である。
映画が始まるとすぐに、若者とアンジェイは、近親憎悪のライバル関係に突入する。若者には、知恵も分別もなく、金も美女もない。しかしアンジェイにもやはりないものがあり、それはエネルギーを傾けるべき「生の意味」である。映画の前半で争われるのは、美女のクリスティナ。アンジェリはクリスティナに自分の魅力の源泉であった「情熱」を誇示しようと試み、一方の若者は、彼女に「成熟」を証明しようと試みる。
だがもちろん、「情熱」と「成熟」とは、そもそも共存しうる概念ではないのである。「情熱」とは、「成熟」を得た瞬間に失われてしまうものなのだ。したがってこの対立は、やはり不毛な対立であるにすぎない。それは、おたがいの「空虚さ」と「無軌道さ」を糊塗するだけの、「見通しなき処方箋」でしかない。自分の「欲望」は、「他者の欲望に対する欲望」としてしか見定められない、そのような「意味の底抜け状態」が、この映画の感受性として通底している。
精神的空白の埋め合わせとしての、自己顕示。自己顕示のぶつかりあいによる、不毛な緊張。不毛な緊張によって、かろうじてつなぎとめられる、生の脆弱な意味。こうしたテーマ性が、話の全体はもちろん、細部の映像的な構図にも、「蚊」「ラジオ」といった音の使い方にも、すべてにわたって緊密に反映させられている。その意味で、若干「理屈っぽい」印象は拭えないが、「謎解きゲーム」の知的スリルとあわせて、やはり秀作映画であると感じた。