「個人主義と知識人」(1889)

ドレイヒュス事件において、「人びとの見解は、事実の問題の問題についてよりも、原理の問題について、より強く分裂した」(36)。すなわち、「個人主義」という価値をどのようなものとして理解し、どのような展望のもとの実現していくか/していかないか、ということが問題の根本に据えられることになった。
そこでまず整理されなくてはならないのは、「個人主義」という概念の内実である。じつは「個人主義」には、二通りの概念化の仕方がある。ひとつは、スペンサーや経済学者らが前提とする、「功利主義」および「利己主義」としての「個人主義」。もうひとつは、カントやルソーが前提とする観念論哲学者たちの「個人主義」。前者の「個人主義」は、すでに力を失いつつある。したがって問題となるのは、後者の「個人主義」である。
後者の「個人主義」は、「私的利益を行為の目的とするのとは全く異な」って、「道徳的格率」(カント)や「一般意思」(ルソー)などの概念に表れているように、「すべての人に差別なく適合する行為の仕方」「人間一般という概念の中に含意される行為の仕方」として、その道徳的内実を構成する(38)。それは、「ひたすら、われわれが他の同胞と共同にもつ、人間的条件が要求するものを探究する」ことを目的とするものである(39)。またこの理想は、「功利的な目的の次元をはるかに超えて」、人格に「超越的尊厳性」を見るものであり、したがって「聖なる事物」に通底する「神秘的特性」、すなわち「宗教」としての機能を有している(39)。とはいえもちろん、「この宗教は個人主義的」であるが、それは「人間を崇拝の対象とするが、定義上人間は個人である」のだから、必然的な論理的帰結である(39)。
この後者の「個人主義」を賦活することが、必須の時代的要請である。このとき、次のような原理的知見が、そのための重要なヒントとなりうる。

……個人の尊厳は、個人をあらゆる連帯を不可能ならしめる道徳的利己主義の中に閉塞させるのではないかと懸念される。しかし実際には、個人の尊厳は、より高い次元の、あらゆる人間に共通な源泉から生じているのである。個人がこの宗教的尊厳に対して権利をもつのは、彼の中に人類の何ものかが存在しているからである。人類こそ、尊敬さるべきもの、聖なるものであり、個人の中にのみあるのではない。人類はすべてこの同胞の中に拡がっている。(42)

これは社会が近代化し、分業の進展によって、「人間が共同に愛し尊敬できるものは人間自身を除いては、何も残らなくなってきた」状況が生まれてきた以上、いわば宿命的な史的課題なのである(46)。さらに「個人主義的理想が真に国民的となっている唯一の国があるとすれば、それはわが国」つまりフランスなのだから、「われわれが今日それを否認することは、……真に道徳的自殺を行うこと」にほかならないのである(48)。
個人主義」という概念の原理的評価は、これまでの「個人をその発達を阻止していた政治的桎梏から解放する」ための運動のなかでは、必要とされていなかった(49)。ただ自由に向けての運動を展開しさえすれば良かったからである。しかし、政治的自由が獲得された瞬間、「悲しいかな、すぐ幻滅がやってきた」(50)。「なぜなら、非常に苦心して獲得した自由をどうしたらよいのかわからないということを白状しなければならない事態がすぐやってきたからである」(50)。
そこでまずは「教育」について問うことが、必須の課題として浮上することになる。「自由は一般的にいって、……難しい用具であることを認めよう。そして、そのために児童を訓練しておこう。道徳教育はすべてこの目的のために向けられるべきであろう」(51)。
また「個人主義もまたあらゆる道徳や宗教と同じく社会の所産」であるとするならば、「それを補完し、拡大し、組織化することが必要で大切である」のだから、「宗教」の本質について問うことが不可欠となる(53、51)。すなわち、「個人主義」という「宗教」を適切に対象化するための、社会をめぐる問いが探究されなくてはならないことになる。参照せよ→http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20050401