友人と話したこと

大学1・2年の時にオナクラだった友人に偶然あって、いろいろ話した。

  • ルソーの作品は全体として整合的解釈を施すことが難しい。Foucaultはルソー論において、ルソーの人間としてのあり方それ自体に、近代的個人としての画期性を見る。あるいはそれは、ルソーの作品論を回避するための、有効な戦略なのかもしれない。
  • フランス現代思想のポストモダニストたちは、エコール・ノルマルを母体とする狭い知識人世界のなかでの自己差異化という強迫にさらされていたのではないか。だがそうすると、知的な先鋭化がすなわち社会からの遊離に堕するという逆説が生まれかねない。であれば、「モダニズムの否定」が知的なインパクトを持ちうるという彼らの想定は、ナイーヴなものだと考えることもできるだろう。さらには、知的階層が大衆と決定的に分離しているフランス社会において、知識人たちが大衆に抱いている潜在的コンプレックスのようなものを見ることも可能だ。『ホモ・アカデミクス』ではそれがどのように論じられているか。
  • Durkheimにおける「社会的世界の生産物としての言語」への注目は、ポストモダンの思想家たちとも通底する社会認識を持っており、それは画期的なことではなかったか。それを画期的だというのは、暴論なのか。もし正しいとすると、フランスの知的伝統において「言語」に着目するという契機はどの時点で生まれたのか。ルソーの「一般意思」の概念には、シンボル体系としての言語の固有な実在性、という観点を「創造的」に見出すこともできそうに思うのだが、それはやっぱり妄想なのだろうか。
  • なぜDurkheimがポストモダンと通底しているかといえば、個人は社会のシンボル体系のなかに組み込まれた存在である、という認識のもとに、かれの社会理論は構成されたからである。もちろんDurkheimの「保守主義的傾向」を指摘しておくことは可能である。私は誤解だと思うが、かれは個人よりも社会の実在性を優先的に強調した、という見方はそれなりに根づよく存在するようでもあるからだ。とはいえじつは、Durkheimは「個人主義」という価値理念を称揚するためにこそ、その価値を「社会的事実」という「集合的実在」に含有されるものとして理解しようとしたのである。よって真の批判は、そのような言語=社会観が、「科学主義」的に明確化されうると「決断」した彼の「ナイーヴな科学主義」に向けられるものでなくてはならない。たしかにそれは、批判されるべき「保守主義」だということはできるだろう。そしてそれは、ニーチェを重要な思想的源泉とするフランスのポストモダニストたちのポジショニングと、正面から対立するものでもあるのだ。だがさらに問えば、そのようなポストモダニストの「ポジショニング」は、本当にDurkheim思想の可能性を素朴に排除しうるものなのか。先ほどの「思想的実践における自己差異化の過剰追求」という問題点を考慮すれば、そこには「科学主義への過剰なアレルギー反応」も見出されるのではないか。「可謬主義」でいいじゃん。
  • 大衆コンプレックスによる概念の空中戦化、を問題視するならば、Deleuze、Foucaultあたりは偉かったらしい。ちなみにDeleuzeのフランス語はめちゃくちゃ簡単だそうだ。Foucaultのは文法は難しいが、散文としての美しさに定評があるそうだ。
  • BatailleとかCailloisとかが1930年代に結成した会合は、基本的にファシズム批判が動機だったそうで、えっ、おまえらがファシストだったんじゃないの、ってな感じを持つのだが、かれらが追求した「聖なるもの」とは、大衆によって普遍化され、一般化されるようなものとは一味違ったものとして構想されたらしい。どうも都合が良すぎるが、興味深い話だ。
  • ドイツロマン主義→三位一体論をベースにした「概念」の概念化→真実のHEGEL→MARX←物象化論←社会的協働関係に組み込まれた個人←言語に注目したDurkheim。

といいながら、一番の収穫は、フランス語の動詞の変化形の発音だったりする。