成瀬巳喜男『あにいもうと』(1953)

目立たないけれど、これは間違いなく名作である。フィルムセンターの作品紹介。

成瀬が長年計画を温めていたという室生犀星の名作の映画化で、舞台は多摩川べりの小さな町である。がさつな性格、乱暴な言葉の中に妹への愛情をにじませる森雅之の演技が素晴らしい。『稲妻』に続いて再び浦辺粂子が母親役を好演。

1953年の作品で、出演者は、京マチ子森雅之久我美子、堀雄二、船越英二、山本禮三郎、浦邊粂子(くめこ)、潮万太郎、宮嶋健一ら。
ついでに、双葉十三郎さんの寸評も引いておこう。

 成瀬巳喜男監督の本作の土台は、何度も映画化された室生犀星の「あにいもうと」。兄・伊之吉は森雅之、妹・もんは京マチ子、もう一人の妹・さんが久我美子
 東京近郊多摩川べりに暮す石工・伊之吉のもとへ、東京に出ていた妹・もんが年下の学生の子をはらんで帰ってくる。妹・さんも恋人のことでゴタゴタしている。伊之吉はもんに腹を立て悪態をつき、居たたまれなくなったもんは家を出るが、兄も妹も心の中では深く愛し合っていた。微妙な兄妹の気持のやりとりを情感豊かに描いた味わい深い名品。

しかし、この批評がやはり問題だと思うのは、この映画は、「主人公は不器用だが、じつは愛情があった」といったような、ステレオタイプの家族愛を描いているわけではないからである。その点で、双葉さんの言い方には、誤解が生じる怖れがある。むしろこの映画からは、「愛するということには、不可避に厄介さが伴うものなのだ」という主題をこそ、読み取るべきであろう。
そのこととも関連するが、なにより素晴らしかったのは、京マチコの演技である。とくに家出してから、流産を経験し、お盆に帰省してくるときの変貌の様子が、圧倒的だった。恋愛に破れ、悪い世評も流れ、もう自分をやぶれかぶれに堕落させることでしか、気安く生きていくことができない。自嘲することでしか、強さを保つことができない。そういう「すれっからし」の生き方のなかに、ふと時おり、もとの純情さが滲み出てくる。そうした姉・もんの心情に、気づくともなく気づいている、父、母、兄、妹たち。たがいの生き方はそれぞれ別でしかなく、そこに姉・もんが求める労わりの言葉は見つからないのだけれど、しかしどこかで「通じ合っている」という感触だけは残っている。反撥や摩擦はさけられず、「分かり合い」に到達するわけではないけれど、そうした「通じ合い」こそが、厄介な家族をそれでも営んでいくことの、かろうじての意味ではないか。
そういう意味で、本作は「家族」映画の傑作だと思う。