「集団の量的規定」(1908)

1972年の訳書であるが、まずは居安正の解説が簡潔で良い。

 彼によれば、社会をなりたたせる諸個人は、さまざまな目的と関心と価値づけにうながされて他の諸個人と関係し、相互に作用しあって、社会を形成するにいたる。しかし、そのような相互作用を生み出す動機づけは、それじたいではなお社会を形成するものではない。それらは、いわば社会化の<素材>あるいは<質料>にとどまり、それらが社会的に実現されるには、さまざまな<形式>をとらなければならない。この<形式>をとることによって、そのような素材も<社会化の内容>として実現され、相互作用をなりたたせる。(解説、214)

社会についての思考を、演繹的に導こうとする姿勢が濃厚にうかがえる。

……内容と形式とは概念的には区別して考察することができる。このことは、幾何学が、さまざまな質料において実現される形式を抽象し、ただその純粋な形式のみを考察するのと同じであり、また文法学が、言語の意味内容を捨象し、それらが表現される言語形式のみを研究対象とするのと同じである。幾何学的形式にしても文法的形式にしても、それらはそれぞれ質料や意味内容と別個に存在するものではない。にもかかわらず科学的抽象は、この分離を可能とし、そのような抽象においてのみ科学が成立するとすれば、社会ガクは社会化の形式を内容から区別し、それを研究対象としてのみ、真の社会ガクとして成立することができる。(解説、215−216)

この認識論的立場は、どのような「科学」理解のうえに成立しているのだろう、と自問してみたりして……。

 「集団の量的規定」においてSimmelが明らかにしようとしたのは、社会ガクの研究対象である社会化の形式と、社会化をなりたたせる諸要素の数との関係であった。「諸個人の統一化と相互の影響といった共存生活は一連の形式をもち、この形式にとっては、そのように社会化された諸個人のたんなる数が重要性をもつ」(二ページ)。集団にふくまれる諸要素の数は、いっさいの社会化の前提と条件をなし、それだけにもっとも無内容な形式であろう。しかし、このもっとも無内容な諸要素の数が集団の性格を規定するとすれば、社会化の形式そのものが、経済や政治などに依存することのない独立変数たることが示され、形式社会ガクの存在の正当性もえられるわけである。(解説、218

「諸要素の数」に注目する点だけをとってみれば、MontesquieuともDurkheimとも一致するわけだが、Simmelの場合、それを二者関係、三者関係と順に描き出すことによって、ダイナミックな理論化に結びつけている。
さて、このような理論化が持つ可能性は決して小さくないと思うのだが、一例だけ挙げておくことにしよう。Simmelは「大衆」という「大きな圏」について、次のような洞察を示している。彼によると、オルテガの場合とは異なり*1、「大衆」における「急進主義」は、「独立変数たる」「諸要素の数」に依存して生じるという。

大衆が運動するばあい――政治的にしても社会的にしてもまた宗教的にしても――まさにそのようなばあい彼らが示すのは、傍若無人な急進主義であり、調停的な党派にたいする極端な党派の勝利なのである。このことはまず第一に、大衆がつねにただ単純な理念のみにみたされ、それのみに導かれることしかできないことによるものである。すなわち、多数者に共通なものとは、彼らのあいだのもっとも低劣で原始的な精神のもち主さえも近づくことのできるものにちがいない。そして高級で分化した人格でさえ、多数のなかではけっして高く発達した複雑な表象においてではなく、むしろただ比較的単純で通俗的・人間的な表象や衝動においてのみ、たがいに一致するにすぎないのである。ところが、大衆の理念が実践的となるべき現実は、つねにきわめて多様に分岐し、多数のきわめて分散した要素から豪勢されている。――そうとすれば単純な理念は、つねにただまったく一面的に、傍若無人に、急進的にのみ作用するはずである。(11)

社会が、諸個人の単純な総和にとどまらない実質を備えているのだとすれば、オルテガや西部先生みたいに「大衆はバカだ」というような批判は、社会ガク的には無意味となる。Durkheimだったら、哲学者による社会批判、と否定するところだろう。つまり、大衆がバカだから「自民党が圧勝した」のではなく、大衆という「集団の量」によって、「急進的」かつ「一面的」な「単純な理念」は、論理必然的に選択されてしまうわけだ。
ある意味、オルテガの上をいくエリート主義で、愉快には思うのだが、このような「演繹的思考」によって、アクチャルな社会分析が可能かどうかには疑問も残った。ただ、二者関係、三者関係の「原理論」はひじょうに面白く、「社交」の話もすんなり腑に落ちたので、自然科学的な科学主義を乗り超える方法論として、注目すべき部分が見出せるかもしれない。いずれまた言及したい。

*1:いや、オルテガも「生の増大」という基本的事実に、大衆社会化の原因を見ているわけで、この断言はあまりにも微妙だが…。そういえば、オルテガも「生の哲学」じゃん!