「いかなる意味でも文学者ではなく」(1900)

ある御者が語った、火事で焼けくずれた廃屋の話。
鍛冶屋の男がいた。仕事の出来ることを誇りにしていたその男は、若くて美しい妻を迎えた。そんな気難しい男のもとに、優秀な弟子がやってきた。だがその弟子は、師匠よりも仕事が出来たのだった。目障りに思った師匠は、妻に相談する。妻は殺害をそそのかしたが、結局二人は、弟子の目を突いてつぶすことに決めた。「そうすりゃあ、お前さんよりなんでもうまくできる、なんてことはなくなるよ」(68)。

 『やりな』
と女房がささやくと、亭主のほうは、ヤッとばかりに寝ている弟子の目を突き刺しました。
 そのときでした。弟子は残ったもう一方の目を見開いて、親方の女房をじっと見据えたのでした。その瞳には深い心の痛みと熱い想いとがあって、それを見た女房は、あっと叫んで松明を投げ捨ててしまったのです。松明は寝台の藁に落ちて、あっという間もなく火がつきました。……(69)

Simmelは言う。「御者のこの話は、私には宿命となった。当時、私は、自分は文学者だと思っていた。……しかし、私には、この一瞬のうちに凝縮された運命を芸術作品に造り上げることはできない、と分かったのだ」(69)。

 同じひとつの揺らめく炎が、一方で魂にぐいと食いこみ、同時に、他方で身体を焼きつくす。私は、女の心のなかで天国と地獄が出会った残酷な瞬間を、何度もありありと感じることができた。その瞬間は私をしっかりと捉えてしまい、私は、瞬間を超え出て、その縺れを、ひとつの平らな形象に置き換えることができなかった。瞬間は閉じたこわい力となって私に立ち向かっていた。瞬間の呪縛を解き放ち、ひとつの芸術的な形象を造り上げることは、私にはできなかったのだ。そのとき、私は悟った。現実は私にとってあまりに強すぎる、私は文学者ではない、いかなる意味でも文学者ではない、と。(70)

「ちくま学芸」の『Simmel・コレクション』、です。