「理想主義的伝統」(1937)

ということで、今日も本当に書きたいことは書かずに、二番目に書きたいことを書く羽目になるわけだ。まずは「Durkheimの政治社会ガク」(1977)から。

ParsonsによるDurukheim解釈はもっとも影響力が大きく、以来、『社会的行為の構造』でうちたてられたDurkheimの著作への見方は、あるゆるぎない正統の位置を占めつづけてきた。その見地によれば、Durkheimの思想は、生涯をつうじて一連の根本的変化をとげたという。最初の「実証主義的」立場(……)から、ついには「理念主義的」性格の立場へと移行したというわけである。この解釈は結果として、Durkheimの著作中に占める『分業論』の意義を決定的に過小評価させることになった。Durkehimの政治思想を検討しようとすれば、どうしてもこの著作のなかでうちたてられた理論を基礎としなければならないが、である以上、右の傾向は、かれの一般社会ガクがどのていど政治の問題や近代国家の性格に関心をいだいていたかをうやむやにしてしまう。(186−187)

しかしまあ、Parsonsはなんでこんな誤りをしてしまったのか。Durkheimが、概念的思考の世界/可感的世界という二元的な世界観を持っており、Rousseauなどの影響によって、「社会的なるもの」のなかに、そのまま規範的内実が備わりうると考えていたらしいことは、ちょっと読めば分かることだと思うのだが。よう分からん。職業集団論と後期の宗教論とは、そのまま連続した研究動機に支えられているわけだしね。『社会ガク講議』が出版されていなかったとはいえ、フランスの動向にくらかったのか、それとも牽強付会が過ぎたのか、実際のところが気になる。
でも、『The Structure of Social Action:A Studey in Social Theory with Special Reference to A Group of Recent European Writers』自体は、なかなか迫力に満ちてるわけで……(北の国から風、Recent European Writersってのが良いね)。

 この研究の初めの部分〔第一、ニ部〕で、長い分析の過程を通して次のような試みがなされた。すなわち、行為理論の完全に実証主義的な見解がある根本的な諸困難をもっているという点を明らかにし、行為の実証主義的理論がいかなる程度においてこれらの諸困難を含み込み、しかもその過程において、厳格な実証主義的基盤をどの程度越え出て、少なくともその一部においては理想主義的方向へと発展してきたか、を示そうとしたのである。この節での課題は、これとは逆の過程を追跡し、完全に理想主義的な立場が有するいくつかの内在的困難を示し、しかもいかにして実証主義的諸要素が理想主義的伝統に入り込んできたのかを示すことである。……このような折衷主義を乗り越えて、少なくともその骨子に関してでも両者の相互関係の特殊な様式を説明する試みが必要である。行為の主意主義的理論がその最も重要な責を負うとすれば、それはまさにこの点においてである。それはある意味で「両方の世界を活用すること」を可能にし、そうすることでこの伝統の間に介在する、外見上和解しがたい懸隔に橋渡ししようとするのである。(23)

この懸隔は、kantの認識論的整理によって「人間の自由の領域」と「経験的・実証的領域」との間で分裂が生じ、一方がランケ流の歴史実証主義、他方が分析・法則的理論化をめざす経験主義、を生み出したことによって生じた懸隔であるわけだが、歴史的個性の記述(Diltheyの精神科学とかね)は理論を志向できず、実証主義は人間固有の自由をふまえられないというアポリアに定位して、主意主義的理論としての行為に着目するあたりなどは、やはりなかなか見事だと思う。でも、MARXの整理が明らかにひどいので、同じようにDurkheimもひどいんだろうね。困ったことだ。