『The Structure of Social Action』(1937)より

昨日の説明の続きで、Weberのことを書いてしまう。
Weberの学問的立場は、新Kant派の法哲学の「形式主義」に否定的な立場(=いわゆる「実証主義」)から出発して、精神科学の伝統の下にある歴史学派(ゴールドシュミットとモムゼン)を経由し、シュモラーの経験主義の興隆期に、経済史のクニースの後釜に座るというかたちで、形成された。しかし、歴史的独自性を主張するそれら歴史学派の伝統の内部のなかで、彼は理論的精神にあまりに富んだ人物であった。というわけで、四年間のスランプののち、Weberは近代資本主義の形成に関わった歴史的独自性を発見する作業に取りかかる。実証主義は究極的に単なる記述に還元されてしまう危険をもつが、Weberは近代資本主義の歴史的独自性を理論的に救出することで、実証主義的伝統と理想主義的伝統の大いなる融合をめざすわけである(以上、48−50)。
説明が過剰なのでざっくりいくが、Parsonsによると、その独自性はMarxとの理論的対峙のなかで見出されたものであったという。本当か?と、疑っているとキリがないので、引用。

しかし両者〔MarxとWeber〕の一致もここまでである。ある意味で、「唯物論的」視点は、十分に発達した資本主義体制の記述には適合的であるが、それはその起源の説明には適していない、とWeberは考えたからである。この目的〔起源の説明〕のためには全く異なった諸力が呼び醒されなければならない。Weberはその新たな思考の段階を開始するにあたって、次のような観点にはっきりと到達したのである。(決して唯一の、というわけではないが)体制の説明に欠くことのできない一つの要素として、形而上学的な観念のある特定の体系に結びつけられ部分的にはそれに依存しているような究極的価値あるいは価値的態度の体系があるということである。(60、太字はseiwa)

二度、本当か、と言いたいのをぐっとこらえて、太字にしたところは重要ですよ。私はかなり疑っていたのだけれど、こう書かれてあるのをみると、やっぱりWeberは社会ガク者であるように思えてくる。って、普通はみんなそう思ってるわけだけどね。

これまで論議されたあらゆる本質的な点において、資本主義的な態度というものはきわめて例外的なものであるとWeberは主張している。……さて歴史的独自性というこの命題のもつ理論的重要性は、資本主義の精神そのものの起源を問題として提起した点にある。もしそれが、あらゆる時代、あらゆる場所において支配的であるとすれば、それは単純に「人間の本性(ヒューマン・ネイチャー」として説明されるかもしれない。しかしこのような解釈に対して、Weberのすべての論述は真正面から論駁している。(68−69)

ほらネ。社会ガクっぽいでしょ?
しかしここで突っ込みを入れておくと、このような「人間の本性」の歴史的相対性の認識は、WeberとDurkheimの間で、相当違った地点から主張されているように思われる。昨日も書いたように、Weberの場合、Kant流の人間的自由を確保するためにこそ、時代の歴史的個性が擁護され、「人間の本性」が主張されていた。しかしDurkheimの場合、「フランス革命における(Rousseau流の)自由」を「人間の本性」とみなす社会認識に対抗することが、第一の目的であった。そのような「自由」観が、社会の本性に逆行し、無闇なアナーキズムを招きかねないものであったから、彼はその歴史的相対性を主張しなければならなかったのである。Durkheimは「自由な個人」から演繹的に導出される「社会」像をしりぞけ、むしろ「社会」そのものの独自な特性を科学的に把握するなかから、本来「社会」そのものに含まれている道徳的価値としての「自由」を、実効的に社会全体で享受できるような方策を考えたのである。
いかん、難しくなりすぎた。話を元に戻そう。この本の著者は、あやしい学説的整理をしばしばするが、Weberのところはさすがに専門家である。お勉強がてら、引用しよう。救済への関心が世俗的行為とどうつながるのかについて、以下、各派ごとにまとめられている。

救済への関心が最も強いカトリック信者にとって、指示された途は世俗を断念し、修道生活に入ることである。その関心があまり強烈ではないカトリック信者にとっては、彼がおかれている生活の持ち場で伝統に忠実に従って、特に儀礼の遵守とか慈善とか個々バラバラの形で善行を蓄積していくことによって自分自身の功績(メリット)を蓄えることである。ルター派の人の場合には、修道生活は排除される。彼にとってあるべき行為は、自分の生活の持ち場で伝統的な義務を忠実に実行していくことであり、正当な形で打ち樹てられた権威に服従することである。〔ルター派においては、〕キリスト教徒は一般的には作り変えることのできない罪の世界の中におかれていると考えられている。罪、それは不可避なものであるが、心からの懺悔とそして少しでも善行を積み重ねようという敬虔な決意によって償われるはずのものである。最後にカルヴィニストは、地上に神の王国をもたらすためにまじめにしかも合理的に職業労働につかねばならない、彼は世俗を断念したり、修道生活に退いたりすることも、また伝統的秩序を受け入れたりすることもしない。彼は、それが彼の天職の範囲内にある限り、義とせられた命令に従って世界を改変しようと企てる。(97−99)

カルヴァン神学の五命題、というのがあって、それを組み合わせると、論理的に上記のような結論に達してしまうのである(78)。おお、こわ*1

*1:あとトーニーのは、あれは批判じゃないから。つまり形而上学的な価値体系の存在を論証とするのがWeberの目的であるわけだから、資本主義が宗教思想に与えた影響なんぞ、彼にとってはどうでもよいのである。しかも、近代資本主義以前に、プロテスタント諸派があらわれたことの議論はきちんとされているわけだし。そのうえ世界宗教を徹底的に比較することによって、プロテスタントのような歴史的に独自な「価値体系」があるところでのみ、近代資本主義か実現したのである、と論証しようとしたわけだ。もちろん、そうした構想それ自体を真っ向から否定するような理論化も考えられるが、それはめちゃくちゃ大変だろうな、やろうとすると。