成瀬巳喜男『秋立ちぬ』(1960)

言い飽きたか、言い足りないか、どちらかといえば、圧倒的に言い足りない。そして、何度でも繰り返し言いたい。やはり素晴らしい。むしろこの作品は、各シーンの美的洗練度において、とりわけ素晴らしい部類に入ると思う。
1960年の作品。出演は、乙羽信子夏木陽介原知佐子加東大介河津清三郎、大澤健三郎、一木双葉、藤原釜足賀原夏子菅井きん。フィルムセンターのパンフレットの引用。

秋立ちぬ(79分・35mm・白黒)
父に死なれ、東京築地にある母の実家に預けられた6年生の少年と、4年生になる近所の旅館の娘とのはかない友情を、下町の情緒を交えて綴る。成瀬には子どもが主人公の作品は多くないが、ロケーションを多用し、さらりとした寂寥感に包まれた佳品である。
’60(東宝)(脚)笠原良三(撮)安本淳(美)北辰雄(音)齋藤一郎(出)乙羽信子夏木陽介原知佐子加東大介河津清三郎、大澤健三郎、一木双葉、藤原釜足賀原夏子菅井きん

子どもが大人になる話、である。同じようなテーマで、素晴らしい作品といえば、たとえば小栗康平『泥の河』(1981)などを思い出すが、この作品では、幻想的な詩情が描かれるのではなく、子どもの可愛らしさが中心に表現されている。旅館の娘の女の子なんて、本当にこまっしゃくれていて、すごく憎たらしいのだけれど、でもやっぱり可愛らしい。でも、ただ素直なだけではいられない事情にぶつかり、ただ可愛いらしくいるだけではすまなくなる時期がやってくる。夏休み、信州から東京に出てきたばかりで見ていたカブトムシは、休みが終わる頃には、持て余し気味のオモチャのように、感じられてしまうのである。夏の終りとともに少年は、自分が個的な存在であることに、それとなく気づきはじめる。
それにしても、この監督ほど、「成熟」ということの深い洞察を感じさせてくれる人も、珍しい。子供時代というのはどこかで、周りの環境とぴったり一致した感覚をもちうる時期である。だが、そこでの感覚は、遅かれ早かれ失われてしまうものでもあろう。それゆえに、この映画はいかなる意味でも「子どもの映画」ではない。子どもの情緒的一体感が喪失されるときほど、本来的な孤独のなかで、失われた過去の輪郭を探し求めるという、「成熟」の本質が露わになるときはないのだから。繰り返すが、各シーンの美しさが、ほんとうに味わい深い。