脳化社会?
Althusserの「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」を読んでみたのだが、まあ正直いって解像度は低い。しかし、解説なども参考に読んでみると、こういうところは養老先生の「脳化社会」にも近いのではないのか、と連想ゲームを楽しむことができる。
……われわれは慣習行為(プラチック)の中に挿入された活動について語ってみよう。そしてわれわれは、こうした慣習行為は儀式によって規則化されており、儀式をとおしてこの慣習行為はイデオロギー装置の物質的存在のまっただ中に刻み込まれるということを指摘しておこう。そして、それは、小さな教会のミサや埋葬、スポーツ団体の小さな試合、学校の教室での授業、政党の集会や討論集会など、こうした装置のとるに足らない小さな部分に属していてさえもそうである。(77)
柳内隆の解説によると、「Althusserはスピノザを絶賛し、スピノザというレンズを通してマルクスを読んだ」、「スピノザは、この世は神という実体の延長だと考え、精神も物質も実体の属性だとした」、「スピノザの論理は『主―客』の構図や『精神―物質』という二元論をうち壊す一元論であり」、「精神は物質(身体)を通して感知されるとし、精神の決定と肉体の決定は同時に起こり、それは同一のコインの裏表でしかないと考えた」ということらしい(170)。したがって、「Althusserがスピノザの論理を『空想的なものの唯物論』と評した様に」、「スピノザにおいては、観念や夢や空想は物質的行為に組み込まれて存在する、ある意味での物質的存在だとされ」たわけである。(170)
すなわち、Althusserの唯物論は、「真理によって閉ざされた形而上学的な閉鎖系の外にある複雑で無限の多様性をもつ実際世界(プラチック)を捉えることを目指している」(171)ということになる。では、そのような唯物論を可能にする方法論は……と話は続くのであるが、今日はこれでおしまい。