『チワワちゃん』
岡崎京子。感情移入というのではないけれど、たとえば次のような文句にみられる「強迫性」に、私はまずは現代的関心を抱く。
ねえ?きっとみんな退屈しているんだよ/何かに夢中になりたくて必死なんだよ/みんな何かを好きになりたくて たまんないんだよ/ねえ?そうじゃないかなぁ?(「GIRL OF THE YEAR」89)
「この強迫性から逃れる術はあるのか?」という問いは、同じ問題を共有する人間にとってしか意味を持たないであろうから、私に問う資格はない。おそらく私は頑迷な教養主義者としてしか、この問題をとらえることはできないだろう。だがそれでも、岡崎京子とどこか通じている感覚があるとしたら、それは何だろうか?おそらくそれは、他者性・異質性への開かれの感覚、であるのかもしれない。
晴れた日は/みんなでどこか外に行きたい/草の上なんかにねころんでサンドウィッチとか食べながら/ラジカセで大きな音とか鳴らしたい/相変わらず退屈なままなんだけど/なんにも夢中になるもんなくてまだ見つからないけど/それでいいや と思える強さと勇気が欲しい(同、119)
この種の強迫観念にとらわれる人は、たいがい、自己完結したネガティブ・フィードバックの解釈枠組みのなかに閉じこめられているものだ。しかし、世界の無意味さが人生の無意味さとして解釈されるとするならば、それは自己愛が「世界と自己との距離感覚」を歪めてしまっているせいなのだ。岡崎京子は、希有にも、こうした硬直性からは無縁の作家である。だから、その作品に共感することができる。
あの日は夜じゅう仕事をしていて、気がついたら時計は四時をまわっていた。イシイユウコが手伝いに来てくれていた。体はくたくただけれどちっとも眠たくなかった。イシイもそうだった。コーヒーでも飲みに行くか、と外へ出た。人影もまばらな夜の通りを抜けドーナツ屋に入ったとたん、そうだ、あそこへ行こう、とおもいたった。町で一番高いマンションへしのびこむことにしたのだった。びくびくしながら門をくぐり、わたしたちはガラスのドアを開けた。管理人部屋を横目でにらみ、誰もいないことを確認した。エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。ごとんごとんと機械の音。手にはふかふかのドーナツと熱いコーヒーの入った袋。ドアが開く。息をひそめて通路を曲がると、わたしたちの目の前に、夜明けの東京がひろがっていた。群青から薄い青、そして茜色へのグラデーション。雲はひとつもない。わたしは空を見上げた。おはよう、おはよう。
あの朝をむかえたのは、いつだったろう?(もう、十年くらい前になるかな?)
この短編集を編んでみて、読みなおしたり描きたしたりしながら、あらためておもったことには、人はいろんなことがコワいんだな、ということです。(人によってその種類や質はちがいますが)。そしてわたしは、自分がいろんなことがコワくなくなるように、これらのマンガを描いたような気がします。
わたしはいまもときどき、あの夜明けをおもいだすことがある。
「コワい」ものを描くとき、そのコワいものの底には、やはり他者性がひそんでいるのだろう。それを認められるようになったとき、あたかも夜が明けるときのような、希望へのかすかな予感を手にできるのだろう。もちろん、私には、直接関係ない話ではあるのだが。
- 作者: 岡崎京子
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1996/06
- メディア: コミック
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http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20050405